神戸藩主時代
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享保17年(1732年)4月1日、伊勢神戸藩に移封となる。享保の改革では、松平乗邑と共に吉宗を助けて改革を推進した。その一方で享保の大飢饉において神戸藩が大被害を受けると、窮民救済に努めている。延享2年(1745年)、吉宗の命令で徳川家重付の家臣となり、同時に5000石加増と神戸城築城も認められ、1万5000石の大名となる。 延享4年(1747年)に江戸城内で肥後熊本藩主・細川宗孝が板倉勝該に斬殺されるという事件が起こると、その解決や細川家存続に尽力している。寛延3年(1750年)、病気を理由に若年寄を辞任し、11月19日には五男の忠永に家督を譲って隠居した。宝暦7年(1757年)2月29日に死去。享年67。 当時においては、茶人としても有名で、茶名を「宗範」と称した。
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