熊本藩主とは? わかりやすく解説

熊本藩主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:03 UTC 版)

細川忠利」の記事における「熊本藩主」の解説

千代姫慶長14年1609年4月24日豊前国中津城輿入れした元和5年1619年)、長男光利(のち光尚と改名)が誕生元和6年1620年)に父から家督譲られ小倉藩主となる。元和8年1622年)には、慶長12年1607年)に出奔し大坂城入城し大坂の陣大坂方として戦い戦後浪人となっていた米田是季を帰参させ、のちには家老にした。 寛永9年1632年)、肥後熊本藩加藤忠広改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石加増移封された(後任小倉城主には忠利の義兄弟である小笠原忠真就任した)。忠利は熊本藩初代藩主となり、父・忠興隠居所として八代城住んだ寛永14年1637年)の島原の乱にも参陣し武功挙げている。 寛永18年1641年)、父に先立って死去した享年55長男の光利(光尚と改名)が跡を継いだ墓所熊本県熊本市の妙解寺。

※この「熊本藩主」の解説は、「細川忠利」の解説の一部です。
「熊本藩主」を含む「細川忠利」の記事については、「細川忠利」の概要を参照ください。

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