熊本藩仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 07:49 UTC 版)
慶長8年(1603年)、利厳24歳の時に加藤清正の懇願により、500石を以て熊本藩に仕官する。当初祖父・石舟斎は利厳の気性を案じて手元から離すのを渋っていたが、清正からの再三の要請を受けて「兵助儀は殊のほかなる一徹の短慮物にござれば、たとえ、いかようの儀を仕出かし候とも、三度まで死罪の儀は堅く御宥し願いたい」との申し出と共に了承し、『新陰流兵法目録事』と極意を示した和歌2首を授けて利厳を送り出したという。 しかし熊本藩では、出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬ったことで、退転して浪人となる。 同僚との争いの原因について、利厳の子孫である尾張柳生家では口伝として、当時領内で起こった百姓一揆において、鎮圧に手間取っていた伊藤長門守光兼の後任として利厳が派遣されたところ、総攻撃を主張する利厳に対して長門守が反対したためにこれを斬り捨てたとする話を伝えている。長門守を斬った利厳はそのまま一揆勢に総攻撃を仕掛けて鎮圧し、清正に仔細を報告すると即日退転したという。この他尾張柳生家には、熊本藩では内実は3000石をもって客分大将として遇されていたという口伝もあるともいうが、後に加藤家が改易となったたこともあって熊本時代の記録は残っておらず、いずれも真相は定かではない。
※この「熊本藩仕官」の解説は、「柳生利厳」の解説の一部です。
「熊本藩仕官」を含む「柳生利厳」の記事については、「柳生利厳」の概要を参照ください。
- 熊本藩仕官のページへのリンク