熊本藩下の秀才
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天保14年12月18日(1844年2月6日)、肥後熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田権五兵衛の3男として、熊本城下の長岡家下屋敷の長屋に生まれる。父は年米25俵の下級武士で、母美恵は同じ長岡家家臣神山家の出身。幼名は多久馬。号は独々斎、または梧陰。 幼少時から神童ともてはやされ、家事をしながら読書を欠かさずこなし、勉強熱心な姿勢が主君・長岡是容に気に入られ、嘉永5年(1852年)1月に長岡家の家塾・必由堂に入れられ、安政4年(1857年)6月までの5年間を過ごした。続いて同年7月に是容の推薦で儒学者木下犀潭(韡村)の塾へ入門、そこで頭角を現し竹添進一郎・古荘嘉門・木村弦雄と共に秀才として注目され、文久2年(1862年)9月に陪臣ながら木下の推薦で藩校時習館の居寮生となった。 慶応2年(1866年)、井上茂三郎の養子になり姓を井上に替える(明治5年(1872年)には名も替え、多久馬から毅へ改名)。同年2月に学習課程を修了した後も時習館の寮で勉強を続け、元治元年(1864年)10月に蟄居していた横井小楠を尋ね討論を交わしたり(その時の様子を『沼山対話』として記録)、慶応3年(1867年)9月に江戸幕府が開設した横浜のフランス語伝習所へ移ったが、同年10月の大政奉還で幕府が滅亡、翌慶応4年(明治元年、1868年)1月からの戊辰戦争による混乱で旅行は中止、4月に帰郷した。諦めず7月に長崎のフランス語伝習所へ転入したが、熊本藩が戊辰戦争で明治新政府へ味方すべく参戦、藩からの命令でやむなく長崎遊学も断念した。 8月に是容の息子米田虎雄が指揮する熊本藩兵に従軍、9月中に平潟から中村、二本松など東北地方を巡った。戦いは既に先発の薩摩藩・土佐藩などの官軍が仙台藩・会津藩など敵を蹴散らした後だったため、熊本藩兵は出番がなく9月22日に二本松から南下して29日に江戸へ戻り、10月19日に海路熊本へ帰藩した。従軍した井上は『北征日記』という日記を書いて鎌倉、江の島などを旅行、帰藩後は年末から翌明治2年(1869年)10月まで藩の命令で長崎へ滞在している。
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