熊本藩下の秀才とは? わかりやすく解説

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熊本藩下の秀才

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 13:57 UTC 版)

井上毅」の記事における「熊本藩下の秀才」の解説

天保14年12月18日1844年2月6日)、肥後熊本藩家老長岡是容家臣飯田兵衛の3男として、熊本城下の長岡家下屋敷長屋生まれる。父は年米25俵の下級武士で、母美恵は同じ長岡家家臣神山家出身幼名多久馬。号は独々斎、または梧陰。 幼少時から神童もてはやされ家事しながら読書欠かさずこなし、勉強熱心姿勢主君長岡是容気に入られ嘉永5年1852年1月長岡家家塾・必由堂に入れられ、安政4年1857年6月までの5年間を過ごした続いて同年7月に是容の推薦儒学者木下犀潭(韡)の塾へ入門、そこで頭角現し竹添進一郎古荘嘉門木村弦雄と共に秀才として注目され文久2年1862年9月陪臣ながら木下推薦藩校時習館の居寮生となった慶応2年1866年)、井上茂三郎養子になり姓を井上替える明治5年1872年)には名も替え多久馬から毅へ改名)。同年2月学習課程修了した後も時習館の寮で勉強続け元治元年1864年10月蟄居していた横井小楠尋ね討論交わしたり(その時の様子を『沼山対話』として記録)、慶応3年1867年9月江戸幕府開設した横浜フランス語伝習所移ったが、同年10月大政奉還幕府滅亡、翌慶応4年明治元年1868年1月からの戊辰戦争による混乱旅行中止4月帰郷した諦めず7月長崎フランス語伝習所転入したが、熊本藩戊辰戦争明治新政府味方すべく参戦、藩からの命令やむなく長崎遊学断念した8月に是容の息子米田虎雄指揮する熊本藩兵に従軍9月中に平潟から中村二本松など東北地方巡った戦いは既に先発薩摩藩土佐藩などの官軍仙台藩会津藩など敵を蹴散らした後だったため、熊本藩兵は出番がなく9月22日二本松から南下して29日江戸へ戻り10月19日海路熊本へ帰藩した。従軍した井上は『北征日記』という日記書いて鎌倉江の島などを旅行、帰藩後は年末から翌明治2年1869年10月まで藩の命令長崎滞在している。

※この「熊本藩下の秀才」の解説は、「井上毅」の解説の一部です。
「熊本藩下の秀才」を含む「井上毅」の記事については、「井上毅」の概要を参照ください。

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