熊本藩士時代
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文政元年(1818年)、熊本藩士・元田三左衛門(700石(本知550石))と津川平左衛門の娘阿喜和の子として生まれる。元田家は藩内で上士層に位置するが、両親共に別の家系から元田家へ養子に来た人物で、彼らを引き取った元田自泉が永孚の面倒を見ることになった。 父・三左衛門は永孚の幼少期には藩主細川斉樹の小姓を勤め、天保8年(1837年)に斉樹の甥細川斉護の側取次役となるなど多忙であったため、祖父の元田自泉より厳しい教育を受け、「唐詩選」「論語」などを学ぶ。11歳の時に熊本藩の藩校時習館に学び、天保3年(1832年)に元服、天保8年(1837年)3月に斉護の参勤交代に従う父の付き添いで江戸へ向かい、大阪・京都を巡り江戸へ方々を見物した末に帰藩した。同年8月、時習館居寮生になり横井小楠・下津休也と知り合いその感化を受け、実学党(小楠中心の藩政改革派)の1人として活動した。しかし天保10年(1841年)に小楠や後ろ盾であった家老長岡是容らが失脚、元田自身も父の強い希望があって天保12年(1841年)に退寮、在野で勉強しながら実学党の交流を続けたが、嘉永6年(1853年)に黒船来航、それによる小楠と長岡の思想・政治方針の対立で安政2年(1855年)に実学党は分裂、一旦実学派から距離を置く。 安政4年(1857年)12月2日に父が死去したことにより翌安政5年(1858年)2月に家督を継ぎ元田家8代目となり、文久元年(1861年)に藩主細川慶順(斉護の次男、後の韶邦)の参勤交代に使番として随行、江戸へ再度上府した。江戸では前越前藩主松平春嶽の側近として江戸幕府の改革に尽力していた小楠と再開したことを喜んだが、翌文久2年(1862年)9月に国許にいた妻が急死したため帰藩して辞職したのもつかの間、12月に京都留守居を藩から命じられ上洛した。京都では公武合体派の藩に従い周旋に励んだが尊王攘夷に否定的で、文久3年(1863年)7月に帰藩した後は中小姓頭になり、元治元年11月の第一次長州征討では慶順の弟・長岡護美が率いた熊本藩兵に従軍して小倉で滞陣、慶応元年(1865年)に辞職した。翌2年(1866年)の第二次長州征討で出兵に反対、薩摩藩・長州藩による武力討伐にも反対で公議政体論者だったが、王政復古が宣言されると時流に乗り上洛することを慶順に主張している。 慶応3年(1867年)12月に高瀬町奉行に再雇用され、翌4年(明治元年、1868年)4月に側用人兼奉行などを歴任したが、学校党ら保守派と実学党ら革新派の対立で藩の政府に対する方針が決まらず、日和見に反発して速やかな出兵と藩主上洛を説いたが採用されず、明治維新後に藩内での意見対立から嫌気が差し明治2年(1869年)2月に東大江村に隠退、私塾「五楽園」を開いた。翌明治3年(1870年)5月、藩政において実学党が復権したことでは藩主の侍読に推挙され復帰、明治4年(1871年)1月に藩命で上京し宣教使・参事を兼任、5月30日に藩命および大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し明治8年1月には明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって天皇への進講を行うことになる。
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熊本藩士時代
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立花家が改易されて宗茂の身が加藤清正預かりになると、家臣達の多くは立花家臣団の勇猛を知る清正に召抱えられ、鎮幸はそのまとめ役として肥後国に残った。宗茂は僅かな家臣と共に各地を放浪する旅に出たが、鎮幸は少しずつ金を貯めて度々宗茂に送っている。 慶長14年(1609年)6月23日、肥後にて死去。享年64。後に、立花宗茂が柳川城主に返り咲くと、鎮幸の子孫は呼び戻され代々大組組頭兼家老を世襲した。
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