細川斉樹とは? わかりやすく解説

細川斉樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 08:23 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
細川斉樹
細川斉樹像(永青文庫蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 寛政9年1月13日1797年2月9日
死没 文政9年2月12日1826年3月20日
改名 六之助(幼名)、茲樹(初名)、斉樹
諡号 芝田、竜門、楽山、竜田
戒名 諦観院春谷宗甚
墓所 東京都品川区北品川の東海寺少林院
官位 従四位下左近衛権少将越中守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
肥後熊本藩
氏族 肥後細川家
父母 父:細川斉茲、母:織衛(芳沢氏)
兄弟 立之斉詮斉樹、浜次郎、猪八郎、邰、峯、柏
紀姫(徳川治済の娘)
坂内氏
1男2女、養子:斉護
テンプレートを表示

細川 斉樹(ほそかわ なりたつ)は、江戸時代後期の大名肥後国熊本藩9代藩主。官位従四位下左近衛権少将越中守

生涯

寛政9年(1797年)1月13日、8代藩主・細川斉茲の三男として誕生(斉茲は元は宇土藩主であったが、斉樹の出生以前に本家を継いでいる)。幼名は六之助、のち父・斉茲の1字を受けて初名の茲樹[1](しげたつ)を名乗っていた。長兄・立之は生家の宇土藩主家を継ぎ、次兄・斉詮は廃嫡されたため、熊本藩世子となり、文化7年(1810年)11月10日、父の隠居により家督を継ぎ、父や次兄と同じく11代将軍・徳川家斉より偏諱を授与されて斉樹と改名する(家斉は斉樹の義兄(正室・紀姫の兄)にあたる)。

藩政においては、島田嘉津次を大奉行として登用し、倹約を主とする藩財政再建を目指した。これにより一時は10万石にも及ぶ蓄えを築いたが、斉樹が文政9年(1826年)2月12日に30歳で死去し、結局、藩財政再建は失敗に終わった。死後、宇土藩主であった甥(長兄・立之の子)の立政(のち斉護と改名)が養子となって跡を継いだ。

系譜

子女は1男2女

出典

  1. ^ 『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図より。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「細川斉樹」の関連用語

細川斉樹のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



細川斉樹のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの細川斉樹 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS