細川行真とは? わかりやすく解説

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細川行真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/05 13:28 UTC 版)

 
細川 行真
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保13年9月2日1842年10月5日
死没 明治35年(1902年4月9日
改名 慎之助(幼名)→行真
墓所 熊本県宇土市の泰雲寺
官位 従五位下、大和守、豊前
幕府 江戸幕府明治政府
肥後宇土藩
氏族 細川氏
父母 父:細川行芬、母:若林氏
養父:細川立則
兄弟 立穀、立則織田信敬行真小笠原寿長本庄寿巨
正室:中川久昭の娘
継室:里子松平斉韶の娘)
側室:ハナヨ、下田シケ、里
毛利高範、静尤、津軽行雅、澄子(南部信方継室)、娘(小出英延正室)、他男子3名・女子2名
養子:立興(兄・立則の長男)
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細川 行真(ほそかわ ゆきざね)は、江戸時代末期の大名明治時代華族爵位子爵

肥後国宇土藩11代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事を務めた。

生涯

天保13年(1842年)9月2日、9代藩主・細川行芬の五男として誕生した。文久元年(1861年)5月、兄の10代藩主立則の養子となり、文久2年(1862年)1月21日、兄が隠居したため跡を継いだ。文久3年(1863年)4月10日に従五位下、大和守に叙任し、文久4年(1864年)2月10日に豊前守に転任する。

慶応元年(1865年)、学問所である樹徳斎を創立して、学問を奨励した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、高瀬藩と共に新政府に与して大原口警備を務めた。明治3年(1870年)9月4日、宇土藩は廃藩となり、行真は所領の10分の1である3000石の家禄を与えられて東京へ移住する。このとき、宇土藩領は熊本藩に吸収された。翌年、兄・立則に長男となる立興(たつおき)が生まれ、のちにこれを養子とした。明治17年(1884年)7月8日、子爵に列する。

明治35年(1902年)4月9日に死去した。享年61。

家族

子女は6男4女

側室

  • ハナヨ
  • 下田シケ

子女

養子

養子としていた甥の細川立興が跡を継ぎ、以降立暢(たつのぶ、1896年 - 1980年)、於菟輔(おとすけ、1928年 - 、菊屋孫輔の子で立暢の婿養子)と続いた。一方で行真の息子たちは他家に養子入りしているが、そのうちの1人である毛利高範の外孫にあたる近衛温子(実父は公爵内閣総理大臣近衛文麿)は、細川宗家17代当主細川護貞の妻となった。

脚注

日本の爵位
先代
叙爵
子爵
(宇土)細川家初代
1884年 - 1902年
次代
細川立興



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