細川政国とは? わかりやすく解説

細川政国

読み方ほそかわ まさくに

武将本名は元国。政賢の猶子八代将軍足利義政仕える。従四位右馬頭任じた文明17年落飾し、法名を道勝といった。明応4年(1495)歿、68才。

細川政国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/02 19:43 UTC 版)

 
細川政国
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 正長元年(1428年
死没 明応4年8月23日1495年9月11日
改名 忠良→政国、道勝(別名)
別名 六郎(通称)、元国
戒名 禅昌院道勝大憧
官位 中務少輔右馬頭
幕府 室町幕府 摂津分郡守護
主君 足利義政義尚
氏族 細川野洲家細川典厩家
父母 父:細川持春、養父:細川持賢
兄弟 教春政国賢春
養子:政賢
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細川 政国(ほそかわ まさくに)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将細川典厩家2代当主。

生涯

細川野洲家2代当主・細川持春の子として誕生。

典厩家の当主・細川持賢の養子となり、応仁2年(1468年)に養父が死去したため家督を継いで当主となった。応仁の乱では東軍の細川勝元を支持した。西軍の一色義直丹後守護を解かれると、文明元年(1469年)に若狭武田氏武田信賢が丹後守護に任じられた。このとき政国は丹後国与謝郡分郡守護に任じられたため、典厩家の家臣・天竺孫四郎を出兵させ、信賢の家臣・逸見駿河守らと共に丹後に討ち入らせた。文明5年(1473年)に勝元が死去して幼少の嫡男・政元が家督を継ぐと、その後見人として補佐を務めた。

文明17年(1485年)、8代将軍足利義政に従って出家した。文明18年(1486年)には摂津西成郡の分郡守護に任じられている。

明応4年(1495年)8月23日に死去。後を子・政賢が継いだ。

系譜




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