信濃国の藤原流木曾氏とは? わかりやすく解説

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信濃国の藤原流木曾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 09:11 UTC 版)

木曾氏」の記事における「信濃国の藤原流木曾氏」の解説

南北朝時代木曾氏に関する確かな史料少ないが、伝承ではおおむね又太郎家邨)が弟の家定家道とともに足利尊氏北朝方として活躍し木曾谷勢力扶植したとしている。木曾氏系図でも、の子らから木曽谷土豪である黒川氏千村氏、馬場氏らを輩出している。 また『高遠集成』では、家村の男子すべてが早世したため、弟・家道の子家頼伯父・家養子となり、木曾氏継いだとしている。 正中2年1385年)、家頼の子・家親の代に御嶽神社若宮建立次代の親豊は永享2年1430年)に禅院定勝寺を、永享6年1434年)には福島興禅寺創建しており、木曾谷勢力拡大していることがうかがわれるまた、前述木曽氏書簡としては最古とされる木曾家賢(左京大夫家賢)による享徳4年1455年)の定勝寺住持補任状には、「木曽浄戒定勝禅寺」と木曽谷全域を指すと思われる木曽庄」の文言使用されており、古来からの呼び名北部大吉祖荘南部小木曾荘)からの変化により、この時期木曾谷全域をほぼ支配下置いていたと考え向きもある。 応仁元年1467年)に時の将軍足利義政から小笠原家長の子定基に宛てた御教書には、「濃州凶徒退治の事、木曽殿に仰せつけられ合力致し」として「木曽殿」が登場するまた、同じ定基宛の細川政国書状にも、「木曽兵部少輔」と協力するようにと記載されている。これらは木曾家豊を指すと考えられ当時室町幕府木曾氏勢力認められていたと伝わる。

※この「信濃国の藤原流木曾氏」の解説は、「木曾氏」の解説の一部です。
「信濃国の藤原流木曾氏」を含む「木曾氏」の記事については、「木曾氏」の概要を参照ください。

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