信濃国の藤原流木曾氏
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南北朝時代の木曾氏に関する確かな史料は少ないが、伝承ではおおむね家村(又太郎家邨)が弟の家定・家道とともに、足利尊氏の北朝方として活躍し、木曾谷に勢力を扶植したとしている。木曾氏の系図でも、家村の子らから木曽谷の土豪である黒川氏、千村氏、馬場氏らを輩出している。 また『高遠記集成』では、家村の男子すべてが早世したため、弟・家道の子・家頼が伯父・家村の養子となり、木曾氏を継いだとしている。 正中2年(1385年)、家頼の子・家親の代に御嶽神社の若宮を建立、次代の親豊は永享2年(1430年)に禅院定勝寺を、永享6年(1434年)には福島に興禅寺を創建しており、木曾谷に勢力を拡大していることがうかがわれる。 また、前述の木曽氏の書簡としては最古とされる木曾家賢(左京大夫家賢)による享徳4年(1455年)の定勝寺住持補任状には、「木曽庄浄戒山定勝禅寺」と木曽谷全域を指すと思われる「木曽庄」の文言が使用されており、古来からの呼び名(北部を大吉祖荘、南部を小木曾荘)からの変化により、この時期に木曾谷全域をほぼ支配下に置いていたと考える向きもある。 応仁元年(1467年)に時の将軍足利義政から小笠原家長の子定基に宛てた御教書には、「濃州凶徒等退治の事、木曽殿に仰せつけられ、合力致し」として「木曽殿」が登場する。また、同じ定基宛の細川政国の書状にも、「木曽兵部少輔」と協力するようにと記載されている。これらは木曾家豊を指すと考えられ、当時の室町幕府に木曾氏の勢力が認められていたと伝わる。
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