信濃入領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 22:12 UTC 版)
天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取りかかった長可であったが、信濃国の政情はいまだ不安定であり、さらに上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが、領内の統治が容易では無いことを痛感した長可は、国衆の妻子を海津城に住まわせることを義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし、統治の確立に努めた。
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