信濃井上氏とは? わかりやすく解説

信濃井上氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:01 UTC 版)

井上氏」の記事における「信濃井上氏」の解説

『尊卑分脈』によると、清和源氏頼季流とされる源満仲多田満仲の子源頼信長元元年1028年)の平忠常の乱平定して東国勢力扶植、さらに三男の頼季が嫡男源満実とともに信濃国高井郡井上本貫として井上氏の祖となったとしている。 源平の戦いとして知られる治承・寿永の乱では同族とされる村山七郎義直村上氏支族とされる栗田氏と共に市原合戦笠原氏相手戦ったのをはじめ、北信濃源氏方として平家方と戦い繰り広げ平家物語では保科党を率い井上光盛が横田河原の戦い源義仲方として参陣して活躍し信濃源氏代表格として扱われている。その後義仲の上洛には従軍せずに源頼朝従った様だが、甲斐源氏一条忠頼と共に頼朝危険視された光盛は、元暦元年1184年7月鎌倉召喚される途上駿河国蒲原駅誅殺される。承久の乱では光盛の次男井上光清(正光)が仁科盛遠従い後鳥羽上皇側に立って参戦している。 井上氏近隣の村上氏清和源氏清流)や、同族とされる高梨氏比して総領家を中核とする武士団の形成大きく遅れたとされる。また盛長の誅殺以後井上一族では親鸞帰依するなどして仏門に入る者が多く、その一方で武士団としての発展阻害されたとする向きもある。井上氏戸隠山勧修院顕光寺に別当職を得るが、29澄海大衆だいしゅ)と合戦に及び、更に文永5年1268年)には井上盛長が善光寺焼き払い誅殺された記録尊卑文脈所載井上系図にある。 文永2年1265年)には井上正頼が在庁官人として信濃大掾称している(『鎌倉遺文』)。 南北朝時代井上氏に関して史料残されていないが、観応の擾乱では諏訪氏とともに足利直義属した応永7年1400年)の大塔合戦では井上左馬助光頼が高梨氏須田氏、島津氏小柳氏、布野氏、中俣氏などと共に大文字一揆衆の一翼として、守護小笠原長秀破ったが、後に室町幕府から派遣され代官細川慈忠によって井上氏国人反乱鎮圧されている。 応仁2年1468年)、隣接する須田郷に攻め入って逆に須田雅政によって討ち取られ記録がある。その翌年にも井上政家隣接する高梨政高狩田郷の領有巡って争奪戦展開している。そして室町時代後期には隣接する越後との関係を強め越後守家山上杉氏守護代長尾氏争い巻き込まれた。永正10年1513年高梨氏支援受けた長尾為景対立する守護上杉定実応援するため島津氏栗田氏海野氏らと越後侵入しようとした。 戦国時代には北信濃侵攻してきた甲斐武田信玄に対して井上清政(昌満)は越後の上謙信属して対峙した。 信濃占領した甲斐武田氏織田氏甲州征伐滅亡した後、本能寺の変織田政権撤退した天正壬午の乱)。この機に北信濃支配下においた上杉景勝により、井上達満も帰住叶ったが、上杉氏豊臣政権下で会津転封されると井上氏随行し、のちに米沢藩となった。 この信濃井上氏嫡流であるが、播磨安芸三河などに同族称する一族存在するまた、時田氏(常田氏)、洞氏、保科氏高梨氏須田氏、佐久氏、関山氏、蘆田氏赤井氏丹波赤井氏)、荻野氏、内田氏などは系図上は井上氏庶流である。

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