義仲の上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
飢饉が小康状態となった寿永2年(1183年)4月、平氏は北陸の反乱勢力を討つために、平維盛・平通盛率いる大軍を派遣する。平氏軍は越前・加賀の反乱勢力を撃破するが、5月に加賀・越中国境の倶利伽羅峠で義仲軍に敗北する(倶利伽羅峠の戦い)。 7月には義仲軍は延暦寺まで到達した。多田行綱は摂津・河内を占拠して平氏の補給路を遮断、遠江の安田義定も東海道を進撃して京都に迫った。京都の防衛を断念した平宗盛は、安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れていく。この時、後白河法皇は比叡山に脱出して都落ちに同行しなかったため、安徳天皇奉じる平氏の正統性は弱まることになった。義仲軍は上洛を果たすが、期待された都の治安維持はうまく機能せず、しかも前年の飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して、市中で略奪や狼藉が横行する。 また、天皇不在となってしまった都では安徳天皇に代わる天皇が必要となっていた。義仲はそれまでみずからが奉じてきた北陸宮の即位を強硬に主張し、高倉上皇の皇子のうちの誰かを即位させる存念であった後白河法皇や公卿達の反感を買った。このようなことから義仲の評判は落ちて、頼朝の上洛を願う声が高まっていく。結局、義仲の北陸宮擁立は失敗し、高倉上皇の第四皇子の尊成親王(後鳥羽天皇)が位についた。このことにより同時に二人の天皇が存在するという異常状態が発生した。同年9月、後白河法皇の命により義仲軍は平氏追討のため山陽道へ出立したが、閏10月に備中水島で平重衡率いる平氏軍に大敗する(水島の戦い)。
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