義仲の滅亡とは? わかりやすく解説

義仲の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)

治承・寿永の乱」の記事における「義仲の滅亡」の解説

頼朝は、寿永二年十月宣旨に基づく東国年貢納入実行する称して源義経らを上洛させた。この情報聞いた義仲平氏との戦い切り上げて、閏10月15日帰京する義経軍11月初めに近江まで到達し味方離反もあり孤立感を深めていった義仲は、11月19日法住寺殿襲撃し後白河法皇幽閉し松殿師家摂政とする傀儡政権樹立する法住寺合戦)。義仲法皇迫って源頼朝追討院庁下文発給させ、翌寿永3年1184年正月には征東大将軍となり、形式的に官軍体裁整えたこのような情勢下、頼朝は弟の源範頼新たに援軍として派遣し正月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ勢多田原から総攻撃開始する義経軍義仲軍と交戦して宇治防衛線を突破し宇治川の戦い)、そのまま入洛して法皇身柄確保した義仲近江粟津戦死した

※この「義仲の滅亡」の解説は、「治承・寿永の乱」の解説の一部です。
「義仲の滅亡」を含む「治承・寿永の乱」の記事については、「治承・寿永の乱」の概要を参照ください。

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