義仲との戦い
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寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた源義仲が、頼朝と対立する叔父の義広・行家を庇護したことにより、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。両者の話し合いで義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿とする形で実質的な人質として鎌倉に送ることで和議が成立した。 義仲は平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門を都から追い落とした。朝廷では平家追討の恩賞に対して、議論が行われて戦功第一は頼朝、次は義仲、その次は行家という結論は出たものの、未だに上洛していない頼朝の京官への任命について上洛後に任じれば良いとする藤原経宗と、直ちに任命すべきであるとする九条兼実や藤原長方との意見対立があってまとまらず(『玉葉』寿永2年7月30日条)、8月10日に義仲は従五位下左馬頭越後守、行家は従五位下備後守に任じられたものの、頼朝については10月9日に平治の乱で止められた従五位下の位階に復されたのみであった。 大軍を率いて入京した義仲は後白河法皇から平氏追討の命を得るが、寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また皇位継承に介入したことにより院や廷臣たちの反感を買った。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。10月7日、頼朝は藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れがあること、数万騎を率い入洛すれば京がもたないことの二点を理由に、使者を返して要請を断った。前述の通り、10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復すると、14日には東海道と東山道の所領を元の本所に戻してその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行うという内容の宣旨を下した(寿永二年十月宣旨)。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則を行っていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永二年十月宣旨により、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。 閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、寿永二年十月宣旨に猛抗議して頼朝追討の院宣を望むが許されなかった。11月には頼朝が送った源義経率いる500~600騎の軍勢が後白河法皇に貢ぎ物を捧げるための使者として近江国へと至る。平氏と義経に挟まれた義仲は、法住寺合戦で後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を引きだす。12月には頼朝の命令で、東国自立を主張して上洛に反対する上総広常が梶原景時に誅殺され、源範頼が義仲追討のための軍勢を率いて鎌倉を発つ。寿永3年(1184年)1月に義仲は征東大将軍に任ぜられるが、20日に範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲は宇治川の戦いで敗れ粟津の戦いで討たれた。 頼朝は鎌倉に在った義高の処刑を考えたが、これを大姫が義高に伝えたため、4月21日に義高は女房に扮して鎌倉を逃れた。頼朝は堀親家に命じて追手を差し向け、24日に武蔵国入間川原で義高を討った。これに憤った政子の要求で頼朝は義高を討った親家の家人を梟首する。ほぼ同時期に甲斐源氏の一条忠頼が鎌倉において、頼朝の命令で天野遠景に殺害されている。またこの時期までに元々は頼朝と同格の武家棟梁だった甲斐源氏の一族それぞれを家人化させることに成功している。 その頃、朝廷では頼朝が義仲を討ったことで先に保留されたままになっていた頼朝への恩賞問題が再審議され、平将門の乱における藤原秀郷の先例に倣って正四位下に越階させるとともに、同じく藤原忠文の先例に倣って「征夷将軍」に任じるべきだとの意見が上ったが、将軍に任命するには節刀を授けるなどの儀式や将軍の下に付ける軍監・軍曹を任命する除目が必要であるとの意見も出された。そこで、頼朝本人の意見も聞くために(粟津の戦い翌日である)寿永3年1月21日に鎌倉に向かって使者が送られたが、頼朝は過分な望みは無く全ては朝廷の意向に従いたいとする申状を提出することにした。その使者が2月20日に京都に帰還すると改めて議論が行われ、意見がまとまらなかった征夷将軍を含めた官職への任命は頼朝の申状に沿う形で再び先送りにしてまずは叙位を先行させるとして、3月27日の除目で正四位下への叙位のみが行われた。この情報は除目聞書(人事異動の写し)を持った義経の使者によって4月10日に鎌倉の頼朝に届けられた。
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