義仲の帰京
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一方、義仲は西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった(『玉葉』閏10月17日条)。義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏10月15日に少数の軍勢で帰京する。義仲入洛の報に人々の動揺は大きく「院中の男女、上下周章極み無し。恰も戦場に交るが如し」(『玉葉』閏10月14日条)であったという。後白河と頼朝の橋渡しに奔走していた平頼盛はすでに逃亡しており(『百錬抄』『玉葉』10月20日条)、親鎌倉派の一条能保・持明院基家も相次いで鎌倉に亡命した。 義仲の帰京に慌てた院の周辺では、義仲を宥めようという動きが見られた。藤原範季は「義仲は、法皇が頼朝と手を結んで自分を殺そうとしているのではないかと疑念を抱いている。義仲の疑念を晴らすため、また平氏追討のために法皇は播磨国に臨幸すべきである」という案を出す(『玉葉』閏10月18日条)。高階泰経・静憲も賛同するが、この案が実行に移されることはなかった。 20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした(『玉葉』同日条)。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』閏10月21日条)、志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、後白河が認めるはずもなかった。義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では後白河を奉じて関東に出陣するという案が飛び出し(『玉葉』閏10月20日条)、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された(『玉葉』閏10月26日条)。しかし、前者は行家、源光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった(『玉葉』閏10月27日条)。
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