法住寺合戦
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法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事政変である。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。
- ^ 谷昇「後鳥羽天皇在位から院政期における神器政策と神器観」(初出:『古代文化』60巻2号、2008年/所収:谷『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年)
- ^ 『玉葉』閏10月17日条には、「或人云はく、頼朝の郎従等、多く以て秀平の許に向ふ。仍つて秀平頼朝の士卒異心ある由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す」とあり、藤原秀衡が義仲に情報を伝えたとしている。
- ^ 義仲に従ったのは子飼いの部下を除くと、志田義広と近江源氏だけだった。義広は義仲滅亡後も抵抗を続けるが、元暦元年(1184年)5月4日に鎌倉軍との戦闘で討ち取られる。近江源氏の山本義経は法住寺合戦後に若狭守に任じられるが、その後の消息は不明である。
- ^ 『平家物語』には「公卿、殿上人の召されける勢と申すは、向礫、印地、いふかひなき辻冠者原、乞食法師どもなりけり」と記されており、網野善彦は『中世の非人と遊女』(明石書店)で「白河の印地、河原印地などといわれた人々は飛礫を打つ「悪党」であり、ほぼ非人、河原者と重なるといってよい」として、中世前期までのことであると断りつつも「非人、河原者が堂々と内裏に出入りし、天皇の直属軍として「婆娑羅」な風を誇っていた時代」があったとしている。
- ^ 義仲と基房の娘の婚姻を語るのは『平家物語』だけで、『玉葉』『愚管抄』には記述がないため、『平家物語』の創作とする見解もある。
- 1 法住寺合戦とは
- 2 法住寺合戦の概要
- 3 経過
- 4 戦後
- 5 参考文献
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