天皇擁立を巡る紛糾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:57 UTC 版)
後白河は時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の皇子2人の中から新天皇を擁立することを決めるが、ここで義仲は突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張する。 兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯だった。後白河は義仲の異議を抑えるために御卜を行い、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が最吉となった。義仲は「故三条宮の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨」(『玉葉』8月20日条)と不満を表明するが、20日、後鳥羽天皇が践祚する。剣璽のない異例の践祚だったが、経宗が次第を作成して儀式は無事に執り行われた。後白河は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与えている(『平家物語』)。
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