粟津の戦いとは? わかりやすく解説

粟津の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/17 01:48 UTC 版)

粟津の戦い

粟津ヶ原の戦い(歌川芳員画)
戦争治承・寿永の乱
年月日:寿永3年(1184年)1月20日
場所近江国粟津(現在の滋賀県大津市晴嵐2丁目、盛越川ほとりの今井兼平の墓付近と推定される)
結果頼朝軍の勝利
交戦勢力
源氏(頼朝)軍 源氏(義仲)軍
指導者・指揮官
源範頼
一条忠頼
源義仲 
今井兼平 
戦力
3万騎 数十騎
損害
ほぼ全滅
治承・寿永の乱

粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年1月20日1184年3月4日)に近江国粟津にて行われた源義仲源頼朝派遣の東国諸将との間の戦い。治承・寿永の乱の1つ。

経過

法住寺合戦後、源頼朝は弟の範頼義経以下、傘下の東国諸将に義仲討伐を命じた。宇治川の戦いなどで敗れた義仲は後白河法皇を連行して京都を脱出しようと図るが、六条河原の戦いで再度敗れて、今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走を試みた。

義仲が近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り立たなくなっていた義仲軍は潰滅し、残ったのは義仲・今井兼平巴御前手塚光盛・手塚別当の僅か5騎であった。義仲が別当に逃げよと促すが別当は躊躇する。更に光盛が別当に逃げよと催促するも別当は討死し、催促する間に光盛も敵に囲まれて討死。義仲が落ち延びよと巴に催促し、巴は義仲に最後の奉公と敵将恩田八郎の首をねじきり離脱する。辛うじて逃げ切った義仲に従うのは兼平のみであった。そこで義仲は覚悟して自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にし、これを見た兼平も自害して、木曾源氏勢力は滅亡した。

なお、義仲を討った人物については『平家物語』『吾妻鏡』は三浦氏庶流の石田為久、『愚管抄』は義経配下の伊勢義盛と伝えている。

ギャラリー

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「粟津の戦い」の関連用語

粟津の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



粟津の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの粟津の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS