一族の構成
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父は(有道)児玉武蔵権守家行。家行の父(家弘の祖父)である有道児玉大夫弘行(児玉党本宗家2代目)は、11世紀末の後三年の役に参戦し、有大夫弘行として記述されている(有は有道氏の略)。弟は、児玉二郎家遠(後の塩谷平太夫家遠)と児玉三郎親家(後の富田三郎親家)の2人。 子息は、庄太郎家長、庄二郎弘高、庄三郎忠家、庄四郎高家、庄五郎弘方の5人。本宗家(嫡男)以外は、父家弘からそれぞれ領地を与えられ、新たに氏を名乗った。彼らは源氏方に従い、治承・寿永の乱(源平合戦)など各戦で活躍する事となる。なお、『吾妻鏡』『荘家文書』『武蔵七党系図』などの資料には、名前の誤記や系譜伝承の混乱が生じている。その為、系譜については諸説ある。 『武蔵七党系図』(14世紀中頃以降に成立)には、家弘の嫡男は、庄権守弘高(別の文献では藤原弘高)とあり、その嫡男が家長であると記されているが、名の継承の観点と所領の継承の観点から研究者の間ではこの系図の説は否定されている。また、庄氏が藤原姓を名乗ったのも鎌倉期より以後の事である。
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一族の構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/21 02:31 UTC 版)
基行の兄は、行業(入西氏)、遠弘(小代氏祖)、有行(越生氏祖)の3人で、それぞれ父資行から領地を与えられ、新たに氏を称した。これらの氏族は当然の事ながら、児玉党の嫡流である庄氏=児玉氏の宗家とも同族である。基行の子息は、太郎弘忠、有弘、弘親がいる。 『武蔵七党系図』の伝承によれば、子息の一人である二郎弘忠は、上真下村(現児玉町上真下)に居住したとある。通称の伝承にも差異が見られ、別系図では五郎弘忠となっており、父子の伝承に混同が見られる。遵って、父基行が居館を築いた可能性もないわけではない。居館跡は確認されている。別の系図では、基行の三男四郎弘親(本来の通称は三郎が正しいと考えられる)は、賀美郡勅使河原村へ移住したとある(当村は丹党の支配下にある領域である)。 建久元年(1190年)、源頼朝入洛の際、後陣随兵の中に「真下太郎」の名が見え、基行の子息である弘忠を指すものと見られている(『吾妻鑑』の記述が正しければ、諸々の系図の通称の伝承は不正確と言う事になる)。嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経の入洛にも、真下右衛門三郎の名が随兵の1番目に見える(真下三郎は弘親に比定できる)。
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一族の構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:14 UTC 版)
兄弟は、弟が4人いて、庄弘高、庄忠家、庄高家、庄弘方。それぞれ、宇治川の戦いや粟津の戦い、一ノ谷の戦い、奥州合戦や承久の乱など、各戦において武功を上げている(伝承によっては、高家は初め義仲方だったともされる)。家長には、頼家(依家)、家綱(改め定綱)、家次、時家、時長の5人の子息がいる(上述の様に、頼家は一ノ谷の戦いで戦死、家次は備中国へ行き土着、時家は本庄氏を名乗り、在地に残る)。
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