系譜伝承
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オーケアノスとテーテュースの子で、姉妹の1柱メリアーとの間にポローネウス、アイギアレウスをもうけた。しかしゼウスに愛されたイーオーや、ミュケーナイの名の由来になったミュケーネー、百眼の巨人アルゴスもまたイーナコスの子といわれる。 ヒュギーヌスによれば、イーナコスはポローネウスの娘ニオベーの子アルゴスの子ピラントスの子トリオパースとオレーアスの子で、クサントスと兄弟であり、アルゲイアーとの間にイーオーをもうけたという。しかし他所ではオーケアノスの子で、姉妹のアルゲイアーとの間にポローネウスをもうけたとも述べている。
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系譜伝承
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神話によると、河神ペーネイオスとクレウーサとの間にヒュプセウスとスティルベーが生まれ、スティルベーとアポローンの間に2子ラピテースとケンタウロスが生まれた。このうちラピテースがペーネイオス河畔に住み着いて王となった。この地の住人をラピテース族と呼ぶのはラピテースに由来する。 ラピテースの2子ポルバースとペリパースはともにラピテース族の王となったが、ポルバースは招かれてエーリス地方に行き、彼に伝説的なエーリス王アウゲイアースとアクトールが生まれた。一方、テッサリアー地方に残ったペリパースには8子が生まれ、さらに長男のアンティオーンはペリメーレー(アミュターオーンの娘)との間にイクシーオーンをもうけた。このイクシーオーンにペイリトオスとケンタウロス族が生まれた。 ガイア ペーネイオス クレウーサ ヒュプセウス クリダノペー ダプネー スティルベー アポローン キューレーネー アポローン ラピテース ケンタウロス アイネウス テミストー アリスタイオス アステュアギュイア ペリパース トリオパース ポルバース レウコーン スコイネウス アクタイオーン アンティオーン ペリメーレー アウゲイアース アクトール アンドレウス エウイッペー アタランテー アタマース ネペレー イクシーオーン ディアー ゼウス アガステネース モリオネ エテオクレース ケーピソス プリクソス ヘレー ケンタウロス族 ペイリトオス ヒッポダメイア ポリュポイテース
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系譜伝承
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トリプトレモスは一般的にはエレウシースの王ケレオスとメタネイラの子で、デーモポーンと兄弟とされるが、様々な系譜伝承がある。以下にそれを列記する。 オーケアノスとガイアの子。 ケレオスの兄弟デュサウレースの子で、エウブレーウスと兄弟。 アテーナイ王アムピクテュオーンの娘とラロスの子で、ポセイドーンの子ケルキュオーンとは異父兄弟。 アルゴスの伝承によるとデーメーテールの密儀祭司トロキロスとエレウシース出身の女性との子で、エウブレーウスと兄弟。 エレウシースの王エレウシーノスとコートーネイアの子、あるいはエレウシースの子。
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系譜伝承
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プローテシラーオスは、一般的にホメーロスの叙事詩『イーリアス』をはじめとして、テッサリアー地方の都市ピュラケー(英語版)の王であるイーピクロスの息子とされている。イーピクロスは麦の穂を踏んでも傷つけずに走ることが出来るという、神懸かり的な俊足で知られる英雄である。ただし一部にはイーピクロスの父ピュラコスとアステュオケーの子とされたり、イーピクロスの兄弟アクトールの子とされることもある。 ヒュギーヌスによると母の名前はディオメーデー。ポダルケースと兄弟。 アカストスの娘ラーオダメイア、あるいはメレアグロスの娘ポリュドーラーと結婚した。
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系譜、伝承
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「エゼルベルト (ケント王)」の記事における「系譜、伝承」の解説
ベーダによれば、エゼルベルトはケント伝承の始祖ヘンゲストの直系の子孫だとしており、「エゼルベルトはイルミンリッチ(Irminric)の息子、イルミンリッチはオクタ(Octa)の息子、オクタはエリッチ(Oeric)を祖父とし、姓をオイシュ(Oisc)と呼んだ。ゆえにケント人の王はオイシングス(Oiscings)という名で知られる」と書いている.”。この系譜を証言するもうひとつの資料に『ヒストリア・ブリットヌム』があり、その中で『オクタ』と『オイシュ』の名が見受けられる 。この系譜の冒頭に書かれる最初の名は、エゼルベルトの父親とされる人物で、しばしばエルメントリッチ(Eormentric)という名が記されている。この名を直接父として記しているのはケント王の系譜のみではあるが、トゥールのグレゴリウスは、それがいつの時代の事かは記しては居ないものの、エゼルベルトの父はケント王であったとのみ記している。この『エルメントリッチ』という名はアングロサクソン人の名としては珍しく、むしろフランク人貴族の名に『エルメン(Eormen)』という名が多く見受けられる事から海峡を挟んだケントとフランク王国との関連性が示唆されている。 現在まで知られるエゼルベルトの親族として妹リコレ(Ricole)がいる。ベーダによれば、リコレは東サクソン人の王サエベルトの母親とされている。 エゼルベルトの生誕と王位継承の時期に関しては意見の相違がある。はっきりした年月を記す最も古い資料を残したベーダは、恐らくアルビヌスとの往復書簡と思われる資料の中で書き残している。それによるとエゼルベルトは616年に没し、王位は56年に及んだと言う、すなわち彼の王位継承は560年となる。またベーダは洗礼を受けてから21年の後に没したと記している(すなわち改宗は595年)。一方カンタベリーのアウグスティヌスがケントに赴いたのは597年、ベーダによればこの伝道によりエゼルベルトはキリスト教に帰依したと言う 。このようにベーダの記述には矛盾が見られる。この時代の重要な資料であるアングロサクソン年代記には、前述のベーダの残した年月と一致しておらず、また写本ごとにも相違が見られる。それぞれが異なる年代記に記された生誕時期、死亡時期、王位期間を照らし合わせてみると、王位は560年から616年、または565年から618年となるが、現存している資料がこの2つの間を行き来している。 アウグスティヌスの伝道の前にエゼルベルトがキリスト教に帰依していた可能性も一概に否定できるものではない。彼の妻はキリスト教徒であり、王宮での彼女にはフランク人の司教が控えており、従ってエゼルベルトがアウグスティヌスの伝道以前にキリスト教がどのようなものかを知っていた可能性はある。またベーダの記したエゼルベルトの没年が間違っていた可能性も否定できない。もしエゼルベルトの没年が618年であったとしたら、逆算すると彼が洗礼を受けた年は597年となり、アウグスティヌスがケントに到着後1年もせずして王を改宗させたとする伝承と合致する事となる。 トゥールのグレゴリウスは著書『フランク人の歴史』にてフランク王カリベルトの娘ベルザ(Bertha)はケントの王の息子へと嫁いだと書いており、ベーダはエゼルベルトがベルザを「両親から」受け取ったと記している。エゼルベルトの王位期間から、彼がベルザを娶った時期は560年ないし565年と推測されており、ベーダの言が言葉どおりに訳すれば、ベルダの父親カリベルトの没年である567年以前にはまず結婚していたものとされている。 しかし一方でエゼルベルトのあまりに長い王位期間も歴史家たちより疑いの目で見られている。彼の在位期間とされる56年というのは実は彼が56歳で死去したのではないかという意見がある。もしそうなら、彼の生年は560年付近となり、彼が570年代半ばで結婚する事はありえる事となる。 またトゥールのグレゴリウスによれば、フランク王カリベルトとベルザの母親であるインゴベルグとの結婚は561年よりも前でないと記している。従って、ここではエゼルベルトとベルザの婚儀は580年頃より前である事はありえそうにない。またグレゴリウスの記した年月は別の件での整合性の問題を解決している。エゼルベルトの娘であるエゼルブルホは、恐らくベルザとの子供であったと思われているが、ベーダの記したエゼルベルトとベルザの結婚の記述から年代を合わせてみるとエゼルブルホが生まれた年にベルザは齢六十となってしまう。 しかしながらトゥールのグレゴリウスはベルザの母親のインゴベルグは589年の時点では70歳であったであろうと書いている。従ってこれが事実であれば彼女がカリベルトに嫁いだ歳は齢40となる。この推測は不可能ではないが、同じくグレゴリウスによれば殊に夫カリベルトは若い女を好んだ模様であった事から、実際にありえる事とは思えない。この事より娘のベルザ自身が早く生まれたのではないかと指摘されている。一方でグレゴリウスはエゼルベルトがベルサと結婚した時点で彼を単に『ケントの人』と記し、589年の項目としてインゴベルグの死を伝える記述を590年ないし591年頃に書いているが、ここでは彼を『ケント王の息子』と記している。この記述がグレゴリウス自身がケントに関して無関心であった現れではなければ(無論フランク王国とケント王国がそのような疎遠な仲とも思えないが)、エゼルベルトの王位は589年以前に始まる事はありえない事になる。 上記の矛盾点は全て解決できるものではないが、最も考えられうる年代としてエゼルベルトの生年は560年頃、そしてベルザとの婚儀は580年頃であっただろうと考えられている。彼の統治は恐らく589年ないし590年付近で始まったのであろうと考えられている。
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