系譜に関する異説・考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:47 UTC 版)
江戸時代初期に一柳図書によって編纂された『一柳家記』は、伊予から美濃に移住し「土岐殿」との対話から一柳を名乗った人物を、宣高の祖父にあたる「通信」という人物としており、通信-弾正直高-太郎左衛門宣高-又右衛門尉(又助)直高-直末、という系譜が記されている。 この時期の伊予河野家の家譜も錯綜しているが、一柳氏の末裔で昭和初期に『一柳監物武功記』(『一柳家記』の異本)の校訂や家史『一柳家史紀要』の編纂にあたった一柳貞吉も、一柳家に伝わる家譜と伊予河野家の系図との間で「著しい不合理」が生じていると認めている。 一柳貞吉の家に伝わる家譜では、宣高の父は弾正少弼通直ではなく、その父の刑部大輔通宣であるという。貞吉の指摘によれば、『一柳家記』にある「河野通信」を称した人物は時代が大きく異なり、この時期の河野氏は刑部大輔通直-刑部大輔通宣と続くのであるから、「通信」は「通宣」の誤りと考証し、なおかつ通宣は永正16年(1519年)に没して伊予に墓もあるので、美濃に移住したのは通宣の子である宣高であろうとする。『寛政譜』の弾正少弼通直を宣高の父とする説についても、弾正少弼通直には男子がなかったはずであるとして退けている。 貞吉は『一柳家史紀要』編纂に当たり、河野氏研究者白石友治の見解(宣高の父は大永6年に没した予州家の河野通篤ではないかと推測)や、西条藩史研究者秋山英一の見解(河野教通(刑部大輔通直)のときに分かれた庶流とする)も検討しているが、貞吉は自家の伝承を尊重する姿勢を示している。
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