系譜の疑問点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 00:12 UTC 版)
伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。 行宗-宗遠の場合、1348年の『奥州管領吉良貞家の書状』の中に「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官伊達修理亮宗政」とみえ、また宗遠の初見は1342年の『五辻顕尚の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている。 1377年に伊達宗政(修理亮)が留守持家と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。
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