系譜・上原家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:15 UTC 版)
上原家がいつ頃から更池に住みついたのか、よく分かっていない。古い記録によれば、和泉国の南王子村に住む木下重三郎の息子竹蔵が23歳のときの1869年(明治2年)、更池の上原安二郎宅へと養子にもらわれてきたことからはじまっている。上原安二郎には、生涯、子がなかった。竹蔵は上原家を継ぎ、地元の娘リウを娶り、9人の子をもうけた。リウは平民であり、更池の者でもなければ、部落の者でもない。 竹蔵、リウ夫妻の五男・豊松は放浪癖のある子で、よく迷子になり、「亀ちゃん」と呼ばれていた。豊松は更池の娘タマノと一緒になり、8人の子をもうけた。長男(上原善広の祖父)から下の7人はすべて女だったが、無事に成人し、それぞれ浪速区、西成区、兵庫長田、京都下京区、奈良北葛城郡の部落へと嫁いだ。 長男(上原善広の祖父)は京都宮津の部落生まれの娘(上原善広の祖母)を娶った。祖父母の間には、二人の子が生まれた。それが上原善広の父とその妹である。父は若くして所帯をもち、農業をしていた実家の屋敷の半分を改築し、食肉卸の小さな店を開いた。母は堺の地主の末娘で、カフェでウェイトレスをしていた頃、父は母を見初めた。上原善広によると「父は大阪商人の権化のような人で、商売のためなら右翼でも共産党でも解放同盟でも同和会でも何でも使った。堺市に肉工場を建てるまでになった。」という。
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