系譜をめぐる異説
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既述の通り宮崎太郎長康は義仲敗死後に信濃国伊那郡に逃れ、その地で亡くなったとするのが定説で、富山県朝日町が昭和59年(1984年)に編纂した『朝日町誌 歴史編』によれば発祥の地である朝日町や嫡子とされる入善小太郎為直ゆかりの入善町にも「その実名を留めていないのみならず墓碑・供養塔も存在せず一族・縁者の末裔と伝える家もない」という。その一方で承久3年(1221年)の承久の乱では北陸道を経由して京をめざす北条朝時率いる幕府軍を越後と越中の国境で迎え撃った宮崎左衛門尉定範という武将がいたことが『吾妻鏡』『承久記』『鎌倉北条九代記』などに記されている。 去ほどにしきぶのぜうとも時は、五月卅日えちごのこうに付てせいぞろへして、ゑちご・ゑつ中のさかいなるかんばらといふ所に付給ふ。この所こそ北ろく道第一のなんじよ、一はうはきしたかふして、人馬さらにとをらず。一方はあらいそにて風はげしければ、船心にまかせず。岸にそふたるほそみちは、わづかに馬一きとをりかぬるみちなり。市降・じやうどゝいふ所に、京がたよりさかも木を引て、みやざきさゑもん一千よきにてかためたり。うへの山にはいしゆみはりたて、かたきよせばはづしかけんとよういしたり。人々いかにとあんじける所に、しきぶのぜうのはかりごとに、いくらもありける牛をとらへて、角にたい松をゆいつけをひはなしたりければ、うし、たい松におそれてはしりとをる所を、上の山よりすはやかたきのよせくるはとて、いくばくのいしゆみを、一度にはつとはなしかけたりければ、おほくのうしどもころされけり。此はかりごとによて、兵どもいしゆみのなんをばのがれたり。さかも木どもをば、あしがるを入て取のけさせとをりけるほどに、六月八日のくれほどに、はんにやのにつき給ふ。 —作者未詳、『承久軍ものがたり』巻第三 この宮崎左衛門尉定範について『朝日町誌 歴史編』では「長康家が木曽義仲の根拠地である信濃へ移ってから朝日町では宮崎村の定範家が有力者となっていた」として、長康家とは別流としている。その一方で『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』では「長野県篠ノ井長谷寺過去帳宮崎源家位牌等宮崎隆造とその家系図」として初代宮崎城主を「宮崎太郎重頼」とする家系図を紹介しており、その第2代を入善小太郎重房、第3代を宮崎定範としている。また宮崎文庫記念館・尊史庵でも「尊史庵(宮崎文庫)由緒」として「宮崎城主宮崎太郎重頼(当宮崎家の始祖)」としており、宮崎太郎長康と宮崎太郎重頼を同一人物と見なすならば、宮崎党は義仲敗死後も越中宮崎に留まり、承久の乱には朝廷軍の一員として参陣。この戦いに敗れた後、宮崎を離れたという解釈が成り立つ。ただし、宮崎太郎長康を初代宮崎城主とする「信州伊那の宮崎家系譜」との整合性など、検討すべき課題は多い。 なお、『朝日町誌 歴史編』が『南信伊那史料』などを元に描き出す信州伊那の宮崎家の系譜は華麗とも峻烈とも呼び得るもので、初代長康の代に源平合戦を戦ったのを手始めに7代三郎太夫の代に至って時の執権・北条高時の催促により六波羅に参陣し(元弘の乱)、光厳天皇を護衛して戦うも敗れて近江国の馬場宿・米山の一向堂で自害。さらに17代輝康の代には河内国烏帽子形を領していたとされるものの三好の変(永禄の変)で戦死、ここで長康家は断絶。その一方で16代右馬允の次男・八郎が分家して忠房を名乗り、武田勝頼に臣従。長篠の戦いで弾丸に当り座光寺原宮崎の館で保養に務めるもほどなく戦病死。保養中、勝頼は宮崎の館に立ち寄り、鶴駿という名馬を賞与したという。さらに忠房家3代目に当る泰景は徳川家康に仕え、従五位下筑後守に叙せられ秀忠から「秀」の字を賜り諱を忠政と改めたという。こうした赫々たる履歴がすべて事実とするならば、宮崎家は源家、北条家、武田家、徳川家という日本を代表する名家に仕え、源平合戦、元弘の乱、永禄の変、長篠の戦いという日本史を彩る合戦を戦ってきたことになる。その信憑性をめぐっては、他の史料によって裏付けられる部分も認められるものの、『朝日町誌 歴史編』が典拠とした『南信伊那史料』では初代長康について「同氏ハ日向国宮崎氏ヲ興シ後備中国ニ移リ源平蜂起ノ乱ニ木曾義仲ニ属シ」とするなど、史実と齟齬を来す内容も含まれており、慎重な検討が求められる。
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