人物と事跡とは? わかりやすく解説

人物と事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:53 UTC 版)

宮崎太郎」の記事における「人物と事跡」の解説

祖は藤原利仁とされる。『姓氏家系大辞典』では「利仁流藤原姓」として「齋藤石黒井口等と同族にして、越中国新川郡宮崎邑より起る」。また『平家物語』長門本によれば、嫡子入善小太郎為直、弟は別府次郎為重。 治承5年1181年)、木曾義仲横田河原の戦い大勝すると、他の北陸道7か国の武将とともに義仲軍に合流寿永元年1182年)には以仁王遺児で、父王の死後、北陸道逃れていた一の宮世上、「北陸宮」の尊称知られる)を宮崎居館招き木曾義仲との対面実現させた。また『源平盛衰記』では「高倉宮御乳讃岐前司重秀ガ此国ヘ具シ下シ進タリケルヲ木曾モテナシ奉テ越中国宮崎ト云処ニ御所ヲ造テスヘ進セ御元服アリケレバ」としていて、同地に宮の行在所となる御所造られたことを伝えている。 その後寿永2年4月27日燧城の戦い宮崎50余人率いて参陣。5月2日安宅戦いで内兜射ぬかれ、郎党とともに宮崎への帰還余儀なくされた。しかし、それまで越後国国府控えていた義仲越中進軍する怪我押して参陣、「二つもなき命を的に懸けて、大事の手を負て、已に死ぬべかりける人のよみがへりて、又鎧着て出給たるこそいとをしけれ」と義仲感激させたという。さらに倶利伽羅峠の戦いでは義仲対し勝敗決め手となった山岳夜襲戦法献策したことが『平家物語』長門本に記されている。 ……宮崎申けるは、誠に山の案内はいかで知らで候べき、此砺波山には三の道候なり、北黒坂中黒坂、南黒坂とて三候、平家先陣中黒坂の馬場に向へて候也、後陣大野、今湊、井家津幡竹橋なんどに宿して候也、中の山はすいてぞ候らん、よも続き候まじ、南黒坂からめて六郎親忠千騎の勢にてさし廻して、が島うち渡り弥勒山上るべし、中黒坂の大将軍根井弥太、千騎の勢にて倶利迦羅廻りて、弥勒山打合せよ、北黒坂大将は、巴といふ美女千騎の勢にて安楽寺を越て、弥勒山へ押寄て、三手一手に成て鬨を作るならば、搦手の鬨はよも聞えじ、平家後陣の勢続きて襲と思ひて、後へ見返らば、白旗いくらも有らんをみて、源氏搦手廻りたりと心得て、あわてながら鬨を合候はんずらん、其時鬨の声聞え候はんずらん、其時搦手廻りにけりと心得て、是より大勢に押寄に押寄すならば、前にはいかでよるべき後には搦手あり、逃べき方なくて、南の大谷向けて落候はんずらん、矢一射ずとも安く討んずるぞと申ける、木曾是を聞てあら面白や、弓矢取の謀はかくぞとよ、平家万騎の勢有りとも、安く討ちてんずるな、殿原とて、宮崎が計ひに附き搦手をぞ廻しける…… —作者未詳『平家物語』長門本巻第十倶利伽羅峠の戦い大勝した木曾義仲は、7月28日には京に無血入城果たし都に源氏の白旗翻った。しかし、その陣中宮崎太郎の姿はなかった。『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』によれば倶利伽羅峠源平大合戦勝利した後、宮崎太郎長康・宮崎党は、宮崎帰ったその後木曽義仲の京への進軍参加した記録はなく、もっぱら北陸宮警護と京への上洛の準備専念したものと考えられ北陸宮二度の上洛に随行したといわれている」。ただし、北陸宮二度の上洛は文治元年1185年11月のことで、この際宮崎太郎随行したかどうか定かではない。『姓氏家系大辞典』では「伊那宮崎氏」として「義仲亡ぶるに及んで逃れて信州入り伊那郡黒田村押領して、此に居館を構へ、家号を以て在名立てて地字を宮崎称す」としており、義仲敗死後に信濃国伊那郡逃れたことを伝えている。また富山県黒部市にある宮崎文庫記念館が所蔵する信州伊那宮崎家系譜」にも同様の事実関係記されている。なお、宮崎太郎没年建久6年1195年)とするのは、同館所蔵の「史料年代表」による。

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人物と事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 00:31 UTC 版)

宮崎定範」の記事における「人物と事跡」の解説

藤原北家利仁流斎藤氏庶流『平家物語』長門本に越中国住人」として登場する宮崎太郎嫡孫とする説もあるものの、富山県朝日町昭和59年1984年)に編纂した朝日町歴史編』では別流としており、定かではない詳しくは「宮崎太郎#系譜をめぐる異説参照)。『吾妻鏡』承久記』『鎌倉北条九代記』などによれば承久の乱において北陸道攻め上る北条朝時率い幕府軍越後越中の国境である蒲原迎え撃ち破られた後は後鳥羽上皇西面武士として仕えた仁科盛遠とともに越中加賀の国境である礪波山戦った六月八日のくれほどに、はんにやのにつき給ふ。こゝにかゞとゑつ中との堺にとなみ山といふ山あり。ふもとにくろさか・しほとて二のみちあり。この所に京がたよりぐんぜいむけられたり。となみ山をばにしなの二郎もりとを・みやざきさゑもんさだのり二千きにてかためたり。しほにはかすやさゑもんあり久・いわうさゑもん・かゞのとがし・井上・つばた・ゑつ中ののじり・河上いしぐろものどもをあひしたがへてかためゐたり。しきぶのぜう、まだあけがた事なるに、うんかのせいをもてをしよせ、時をどつとつくりければ、じやうのうちよりも出合、さん/\にたゝかひけるが、かたきうんかのせいをもて入かえ/\せめければ、つゐにせめおとされて、ちり/\におちて行。 —作者未詳、『承久ものがたり巻第三 また、北条義時承久3年6月6日付け御教書には宮崎定範の名前が朝廷軍側の将官筆頭として記されている。 ほくろくたうのてにむかひたるよしきこえ候ハ、みやさきのさゑもん、にしなの二郎、かすやのありいしさゑもん、くわさのゐんのとうさゑもん、又しなのけんし一人候ときゝ候、いかにもして一人ももらさすうたるへく候也 —『市河家文書』 その生死については『承久記』などにも記されていないものの、『富山県大百科事典』では承久3年没年としており、『宮崎定範事歴』でも「此戦に定範血戦奮闘し数創を蒙り身を忠義血潮染めて仁科盛遠と共に名誉の戦死遂げ礪波山の露と散り果てたり」としている。 大正6年1917年)、大正天皇陸軍特別大演習統裁のための滋賀県下への行幸を機とし、特旨を以て正五位追贈された。『贈位諸賢伝』に曰く定範更に盛遠と礪波山守りて之を拒ぎ軍利あらずして散る、後其終る所を知らずと云ふ」。

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