人物と事跡
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祖は藤原利仁とされる。『姓氏家系大辞典』では「利仁流藤原姓」として「齋藤、石黒、井口等と同族にして、越中国新川郡宮崎邑より起る」。また『平家物語』長門本によれば、嫡子は入善小太郎為直、弟は別府次郎為重。 治承5年(1181年)、木曾義仲が横田河原の戦いに大勝すると、他の北陸道7か国の武将らとともに義仲軍に合流。寿永元年(1182年)には以仁王の遺児で、父王の死後、北陸道に逃れていた一の宮(世上、「北陸宮」の尊称で知られる)を宮崎の居館に招き、木曾義仲との対面を実現させた。また『源平盛衰記』では「高倉宮ノ御乳人讃岐前司重秀ガ此国ヘ具シ下シ進タリケルヲ木曾モテナシ奉テ越中国宮崎ト云処ニ御所ヲ造テスヘ進セ御元服アリケレバ」としていて、同地に宮の行在所となる御所が造られたことを伝えている。 その後、寿永2年4月27日の燧城の戦いに宮崎党50余人を率いて参陣。5月2日の安宅の戦いで内兜を射ぬかれ、郎党とともに宮崎への帰還を余儀なくされた。しかし、それまで越後国の国府に控えていた義仲が越中に進軍すると怪我を押して参陣、「二つもなき命を的に懸けて、大事の手を負て、已に死ぬべかりける人のよみがへりて、又鎧着て出給たるこそいとをしけれ」と義仲を感激させたという。さらに倶利伽羅峠の戦いでは義仲に対し勝敗の決め手となった山岳夜襲戦法を献策したことが『平家物語』長門本に記されている。 ……宮崎申けるは、誠に山の案内はいかで知らで候べき、此砺波山には三の道候なり、北黒坂、中黒坂、南黒坂とて三候、平家の先陣は中黒坂の猿が馬場に向へて候也、後陣は大野、今湊、井家、津幡、竹橋なんどに宿して候也、中の山はすいてぞ候らん、よも続き候まじ、南黒坂のからめては楯六郎親忠千騎の勢にてさし廻して、鷲が島うち渡りて弥勒山へ上るべし、中黒坂の大将軍は根井小弥太、千騎の勢にて倶利迦羅を廻りて、弥勒山へ打合せよ、北黒坂の大将は、巴といふ美女千騎の勢にて安楽寺を越て、弥勒山へ押寄て、三手が一手に成て鬨を作るならば、搦手の鬨はよも聞えじ、平家後陣の勢続きて襲と思ひて、後へ見返らば、白旗のいくらも有らんをみて、源氏の搦手廻りたりと心得て、あわてながら鬨を合候はんずらん、其時鬨の声聞え候はんずらん、其時搦手は廻りにけりと心得て、是より大勢に押寄に押寄すならば、前にはいかでよるべき後には搦手あり、逃べき方なくて、南の大谷へ向けて落候はんずらん、矢一射ずとも安く討んずるぞと申ける、木曾是を聞てあら面白や、弓矢取の謀はかくぞとよ、平家何万騎の勢有りとも、安く討ちてんずるな、殿原とて、宮崎が計ひに附きて搦手をぞ廻しける…… —作者未詳、『平家物語』長門本巻第十三 倶利伽羅峠の戦いに大勝した木曾義仲は、7月28日には京に無血入城を果たし、都に源氏の白旗が翻った。しかし、その陣中に宮崎太郎の姿はなかった。『越中武士団 宮崎太郎長康・宮崎党「その時代と歴史」』によれば「倶利伽羅峠の源平大合戦に勝利した後、宮崎太郎長康・宮崎党は、宮崎に帰った。その後の木曽義仲の京への進軍に参加した記録はなく、もっぱら、北陸宮の警護と京への上洛の準備に専念したものと考えられ、北陸宮の二度の上洛に随行したといわれている」。ただし、北陸宮の二度めの上洛は文治元年(1185年)11月のことで、この際、宮崎太郎が随行したかどうかは定かではない。『姓氏家系大辞典』では「伊那の宮崎氏」として「義仲亡ぶるに及んで、逃れて信州に入り、伊那郡黒田村を押領して、此に居館を構へ、家号を以て在名を立てて地字を宮崎と称す」としており、義仲敗死後に信濃国伊那郡に逃れたことを伝えている。また富山県黒部市にある宮崎文庫記念館が所蔵する「信州伊那の宮崎家系譜」にも同様の事実関係が記されている。なお、宮崎太郎の没年を建久6年(1195年)とするのは、同館所蔵の「史料年代表」による。
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人物と事跡
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藤原北家利仁流斎藤氏の庶流で『平家物語』長門本に「越中国の住人」として登場する宮崎太郎の嫡孫とする説もあるものの、富山県朝日町が昭和59年(1984年)に編纂した『朝日町誌 歴史編』では別流としており、定かではない(詳しくは「宮崎太郎#系譜をめぐる異説」参照)。『吾妻鏡』『承久記』『鎌倉北条九代記』などによれば、承久の乱において北陸道を攻め上る北条朝時率いる幕府軍を越後と越中の国境である蒲原で迎え撃ち、破られた後は後鳥羽上皇に西面武士として仕えた仁科盛遠らとともに越中と加賀の国境である礪波山で戦った。 六月八日のくれほどに、はんにやのにつき給ふ。こゝにかゞとゑつ中との堺にとなみ山といふ山あり。ふもとにくろさか・しほとて二のみちあり。この所に京がたよりぐんぜいをむけられたり。となみ山をばにしなの二郎もりとを・みやざきさゑもんさだのり二千きにてかためたり。しほにはかすやさゑもんあり久・いわうさゑもん・かゞのとがし・井上・つばた・ゑつ中ののじり・河上・いしぐろのものどもをあひしたがへてかためゐたり。しきぶのぜう、まだあけがたの事なるに、うんかのせいをもてをしよせ、時をどつとつくりければ、じやうのうちよりも出合、さん/\にたゝかひけるが、かたきうんかのせいをもて入かえ/\せめければ、つゐにせめおとされて、ちり/\におちて行。 —作者未詳、『承久軍ものがたり』巻第三 また、北条義時の承久3年6月6日付け御教書には宮崎定範の名前が朝廷軍側の将官の筆頭として記されている。 ほくろくたうのてにむかひたるよしきこえ候ハ、みやさきのさゑもん、にしなの二郎、かすやのありいしさゑもん、くわさのゐんのとうさゑもん、又しなのけんし一人候ときゝ候、いかにもして一人ももらさすうたるへく候也 —『市河家文書』 その生死については『承久記』などにも記されていないものの、『富山県大百科事典』では承久3年を没年としており、『宮崎定範事歴』でも「此戦に定範血戦奮闘し数創を蒙り身を忠義の血潮に染めて、仁科盛遠と共に名誉の戦死を遂げ礪波山の露と散り果てたり」としている。 大正6年(1917年)、大正天皇の陸軍特別大演習統裁のための滋賀県下への行幸を機とし、特旨を以て正五位を追贈された。『贈位諸賢伝』に曰く「定範更に盛遠と礪波山を守りて之を拒ぎ軍利あらずして散る、後其終る所を知らずと云ふ」。
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