人物とその活動
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2011年に『グラモフォン』誌で、「大指揮者になりそうな10人の若手指揮者」のうちの1人に選ばれた。 ブルノのギムナジウムに通っていたころはピアノとトロンボーンを習っていたが、次第に指揮に興味を持つようになった。その後プラハ芸術アカデミーに進学し、イルジー・ビエロフラーヴェク、ラドミル・エリシュカらに指揮を学んだ。 2000年にプラハの春国際音楽コンクール指揮者部門に出場、このときは予選落ちした。フルシャはこのことについて、 「指揮者になろうとした時に背中を押してくれたのはラドミル・エリシュカ先生でした。まだプラハ音楽アカデミーの1年生の時に『プラハの春国際指揮者コンクール』に出場するように奨めてくれたのです。その時は結局本選には進めなかったのですが、初めてプロのオーケストラを指揮するという貴重な経験を得ることが出来ました」 と語っている。 2004年にアカデミーを卒業した。ルドルフィヌムでの卒業コンサートでは、プラハ放送交響楽団を指揮してヨゼフ・スークの『アスラエル交響曲』を演奏した。 卒業後はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団などのチェコ内のオーケストラや、フィルハーモニア管弦楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、BBC交響楽団などの世界各地のオーケストラに客演を行いつつ、ヨーロッパのオケでポストを得て経験を積む。 2010年にはプラハの春国際音楽祭オープニング・コンサートの指揮者を最年少で務めた。また、同年より東京都交響楽団首席客演指揮者に就任した。就任会見では都響について、 日本のオーケストラは個性がないと言われるようですが、私はそうは思いません。特に都響について言えば“高い柔軟性”という個性があります。指揮者が指示したことが必ず返ってくる。これは鍛錬を積んだ技術力、正確なリズム感、バランス、理解力がないとできません。とても大きな魅力でしょう。 と語った。 東日本大震災よりちょうど1年後の2012年3月11日には、本人の希望で、ともに来日していたプラハ・フィルハーモニアのメンバーと、東京都交響楽団のメンバー5人が加わって、ドヴォルザークの交響曲第9番より第2楽章ラルゴを演奏し、追悼演奏を行った。
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