人物とエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 05:36 UTC 版)
過去の趣味は陶芸。陶芸好きから映画『KAMATAKI -窯焚-』では吉行和子と共演、テレビドラマ『汚れた舌』でも陶芸家の役で出演している。地元である横浜そごうにおいて1995年から1998年の間に計3回、また横浜高島屋においても2006年に「藤竜也 陶芸展」を開催している。 回転寿司が好物で、毎週必ず回転寿司に通っている。 石原裕次郎からは「タツ」の愛称で大変かわいがられていた。藤と芦川の結婚の際も、石原が日活の重役たちに了承させ、藤に結婚式のタキシードも贈った。 スポーツジム等で身体を鍛える俳優の先駆者といえる存在と言われることがあるが、藤自身は自分より先に体を鍛えていた俳優も居たので、自身はそうは考えていないが、そう言われるのは自分に対しての悪くない評価であり、有り難く受けとめると語っている。また毎日のように鍛えていたのは、日活入社したものの決して毎日のように仕事があったわけではなく、むしろ暇であったからで、毎日のように行けば自分の存在を忘れられないであろう、そして何かしらいいことがあるであろうと考えていたためだと語った。『時間ですよ』で人気を博した頃にはすでに肉体を筋肉質へと変貌させた。 藤は演技というものについて、演技には上手いも下手も無い、また他人の演技を下手だと思ったことは一度もなく、役者にはいろんな人が居ていい、たとえ下手な演技があるとしても、それも芸のうちだと考えていると語った。
※この「人物とエピソード」の解説は、「藤竜也」の解説の一部です。
「人物とエピソード」を含む「藤竜也」の記事については、「藤竜也」の概要を参照ください。
人物とエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 06:16 UTC 版)
性格は、まさに慎重居士で、自身さえも「石橋を叩いても渡らない」と語っており、その為か生前は、『狼よ落日を斬れ』などの殺陣が評価され、幾度となく、二代目・阪東妻三郎の襲名を打診されていたが、その度に固辞していた。松竹や大映からも襲名を強く希望され、内田吐夢監督が乃木大将の映画を撮るにあたり、主役で出演の打診をされ、その際にも襲名を希望された。本人は、父親の華やかな雰囲気は自分の柄には合わない、自分のスタイルを確立したいとも話していた。 松竹は時代劇俳優として売りたいと考えていたが 、派手なことを嫌い、阪妻2世と呼ばれることを極度に嫌い、時代劇への出演を避けていたが、阪妻追悼記念の『京洛五人男』で時代劇に出演、阪妻専門の殺陣師と入念な打ち合わせの上、ようやく時代劇に出演した。 田村三兄弟揃い踏みで阪妻追悼の舞台が行われたが、弟の亮は高廣があまりにも真面目過ぎて疲れたと明かしている。正和は高廣について、歳が離れすぎているから、兄弟というより父親の代わりの様な存在だと話していた。 父・阪東妻三郎についてはほとんど会話らしい会話をすることは無く、「ぼくには、怖かったな。直接話したことないですね。食事も奥座敷で母に給仕させ、むずかしい顔をして、一人で食べてました」と語っていた。しかし阪東妻三郎は高廣に名跡を継がないまでも、同じ映画業界で生きていて欲しい。と話していたという。高廣自身は父が本当は、自分に名跡を継いでほしと思っていたのではないか。と回想した。田村自身による回想『剣戟王阪妻の素顔』(ワイズ出版、2001年)がある。 『鬼平犯科帳』第2シリーズ 第12話「雨乞い庄右衛門」にゲスト出演した際、台本では7、8人を刀で斬るとなっていたが、刀では本当は2、3人しか連続して切れないので、「一人一人を刺して確実に殺した方がリアルな立ち回りになる」との田村の提案が採用され、リアルで迫力のある映像となった。 池波正太郎は田村について、京都の生まれ育ちであるが、「あいつはなかなか江戸っぽいと」と評価していた。1980年代後半晩年の池波正太郎は、『剣客商売』の次回映像化では是非にも田村を秋山小兵衛役に起用する様にと度々言い残していた、また、池波作品を愛する田村も秋山小兵衛役を熱望していた、しかしその要望は、映像化の際には無視されることになった。田村は父阪妻と池波には何かつながるものがあると感じると話していた。 京都三中での同級生で作家渡辺一雄による回想記『田村高廣の想い出 日本人への遺言』(ビジネス社、2006年)がある。 パイプ煙草を嗜む。雑学見聞の紀行番組・ドキュメンタリー番組である「TVムック・謎学の旅」のパイプ煙草を取上げた放送回では案内人役を務め出演、ヨーロッパ各地を訪れパイプ煙草文化を紹介している。
※この「人物とエピソード」の解説は、「田村高廣」の解説の一部です。
「人物とエピソード」を含む「田村高廣」の記事については、「田村高廣」の概要を参照ください。
人物とエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 23:49 UTC 版)
川島芳子に対し、利害関係なく愛情を注いだ数少ない人物である。 芳子からは『赤羽のお母様』と呼ばれて親しまれ、芳子が甘えられる数少ない人物であった。 利発な芳子のことを考え、単なる家庭教師には終わりたくない気持ちもあり、まつ江は謝金を断ったという。 芳子は食事の時、まつ江の好物が膳に乗っていると、「わたし、これ嫌いだから赤羽のお母様召し上がって」と言って押し付けたという。芳子は何でも気のつく優しい子供だったそうが、ひねくれた愛情を見せる子だったのであろう。 まつ江は、当時にしてはインテリな女性であり、また国際的視野を持つ人物と思われる。 結婚直後に3年間の留学生活に入るという、行動力の裏には、僧侶である夫の絶大な信頼関係があったからであり、その信頼関係は終生変わらなかったという。 1933年(昭和8年)の再会の時は、芳子は事前にまつ江に手紙を出し、「久しぶりにお母様に会へると思ふと、飛びあがりたくなるようにうれしゆうございます。お出での時には、栄泉堂の最中と甘納豆をドッサリ買って来てね」と書いている。 戦後、逮捕された芳子の獄中からの書簡の中に、「このわたしが死んだと聞いて、悲哀の涙にかきくれ、心から歎いて下さるのは、赤羽のお母様だらう」という、赤羽まつ江に関する記述がある。 蔣介石夫人の宋美齢とは、コロンビア大学で同じ留学生クラブだった。 芳子が戦後、軍事裁判で漢奸として処させると知るや、芳子の助命活動を始める。まずは松本の浅間温泉にいた芳子の養父・川島浪速を訪ね、散在している松本高女の卒業生を訪ね、東奔西走ののち、3千名以上の署名を集めた。その趣旨は「芳子はすでに日本人であるから、漢奸として扱うべきではない」というものだった。食糧難、交通難の中、親戚友人から寄せられた資金で上京。長年親交のある大妻コタカを訪ねて落ち着くと、政界の各方面に足を運んで援助を要請した。まず社会党の松岡駒吉、長野・愛知県選出の国会議員、川島浪速と懇意の頭山満の三男・頭山秀三、GHQの幹部などに再三訪問した。しかし、多大な協力によりいよいよ北京へ飛ぶ段取りがついた時、ラジオ放送で芳子の処刑を聞いて、精根尽き果てたまつ江は卒倒したという。
※この「人物とエピソード」の解説は、「本多まつ江」の解説の一部です。
「人物とエピソード」を含む「本多まつ江」の記事については、「本多まつ江」の概要を参照ください。
人物とエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 09:36 UTC 版)
座右の銘は「脱私即的(だっしそくてき)」(意味:私を脱し、本来の目的に付く)で、早稲田大学を卒業してから共同通信へ入社するまでの26歳の頃に、自身の体験から考案した造語である。他にも、「深淡生」(深く淡く生きて死す。即ち≪思い切り自由に、深々と謙虚に、淡々と強靭に、命のまんなかは真実でいよう≫の意)も座右の銘として挙げている。また、「武士道精神」を重んじ、『葉隠』を愛読している。 国会議員当選前の肩書きについては、「実務家」であると定めている。自身が特に、「ジャーナリスト」、「評論家」、「タレント」として見られることには常々否定的見解を示しており、2002年4月に独立総合研究所を設立してから2016年7月に国会議員になるまでは、自身の第一の肩書は実務家「独立総合研究所社長」としていた。 小学校5年の時に、近所の悪ガキたちと「Z団」を立ち上げ、自宅の屋根の日の丸掲揚台に画用紙で「Z」と書いた旗を揚げていた。近所の人達から「青山さんの所は、新興宗教でも始められたのですか?」と指摘された母親から叱責された。 Z団のことで母親に叱られ、その次に「何でも相談所」を立ち上げて、近所の曲り角から自宅の青山の部屋まで至る道なり全てにお悩み相談所までの矢印が書かれた紙を貼って行った。これを見た女性が青山の元まで辿り着き、母親を驚かせ、女性にはお引きとりして頂き、青山本人は母親から再び叱られた。 その青山の母親と姉は、敬虔なキリスト教徒でプロテスタントのカルヴァン派の信仰を持っていたという。ただ、当主である青山の父親は仏教の曹洞宗の檀家であった。息子の青山本人はカトリック系ミッションスクール(淳心学院中学校・高等学校)出身で自身も幼少期から聖書を読まされた経験を持つが、「自分はいかなる特定の宗教にも帰依していない」と公言している。 大学受験にて、国立旧一期校・二期校制度の中で、東京大学を受験したが、一次試験に合格して、二次試験が得意な科目だったため、自宅で長兄と痛飲して大遅刻してしまい、受験会場の教室の中に入室拒否されたが、必死に交渉して何かと入室許可を得た事で、英語の試験の残り5分から論文を書いて受験した。青山本人としては合格した気になったが、当然不合格であった。 18歳で独立しているので、実家からの仕送りを受けず、家庭教師とスキー場の講師アルバイトで生計を立てていた。また、慶應から早稲田に転学する時は父親と勘当状態だったので、友人からカンパで受験料を借金し、入学後返済している。だが、父親からは怒られた事や喧嘩をした事が一度もないとも発言している。 共同通信への就職活動時、入社試験の過程で人事課職員に年齢制限で断られるも、何十度もコールバックし願書を取り寄せ、面接時には三次面接では、面接官の当時:国際局局長原寿雄と大喧嘩をし、最終面接時では当時社長であった、慶大出身の渡辺孟次と「早稲田から慶応への転学なら分かるが、慶応から早稲田の転学は許せない」と再度喧嘩になったが、結局合格した。そのため、実家に帰宅した際、母親から「逆転ホームランやな」と言われた。但し、青山が共同通信を退職する際、最後まで反対したのは原であった。 結婚式を挙げた際、父親が支援者となっていた渡海元三郎元建設大臣が参列したが、招待したのに渡海の座席が無く秘書が慌てたり、渡海が挨拶しているにも関わらず、参列者が誰も料理の手を止めなかったりとぞんざいな扱いをしていた。 徳島支局配属1日目で県警本部前で起きた交通事故を取材活動をしている際に、調書を覗き込もうとして警察官に突き飛ばされた。その際に、当時:毎日新聞徳島支局(現:関西学院大学非常勤講師、元:大阪本社論説委員)の平野幸夫が警察官との間に入り、調書を見せるよう強引に迫った。この一件を県警本部広報官が公務執行妨害に該当すると記者クラブに警告した際に、平野がクラブ全体の問題にすると反論すると、広報官が引き下がった経験から、弱い立場の記者が団結するという記者クラブの利点を知った。 1984年、日本レース株買い占め事件で許永中を追跡している際に、当時居住していた京都市伏見区の自宅に匿名の脅迫電話を受けたことがあるとしている。 政治部記者時代に、妻である千春が大学に戻る際、休学を経て退学から12年が経過し、「前例が無い」と考え、航海士の受験を認めない動きがあったので、青山の取材で出会った関係省庁や国会議員に対し、「受験を認めない世の中等おかしい」と抗議をした。結果、千春は航海士の試験に受験が認められ、合格したので大学に復学出来た。また、大学復学後、世界一周遠洋航海に出た時期に小学生だった息子の子育てをする為、当時の上司に会社の取材用社用車(ハイヤー)を使用お願いをし、自宅と会社と取材先を往復する日々を過ごした。 政治部内で労働省担当し、連合の山岸章初代会長を取材した。 記者時代から通して、過去7回、政治家への出馬を打診されたことが何度もあり、新党さきがけ担当時に代表幹事だった鳩山由紀夫や、自民党の塩川正十郎から打診されたことがある。その時に母親に相談したが、背筋を正した母曰く、「お前ね、政治家の如き汚らわしい職にするために、育てたのではないバカたれ!」と、怒られた。その後、誘った政治家に母の言葉をそのまま伝えたらしばらく口を聞いてくれなくなった。その後、第23回参議院議員選挙でも、自民党から出馬の打診はあったが、結局「家族の反対」を理由に断った。 ペルー日本大使公邸占拠事件後に共同通信を退社したが、その理由はペルー事件の取材手法で取材協力者について、橋本龍太郎総理大臣から当時の共同通信社長に問合せ、一切その手法を明かさなかった。以前の社風と変わったことも共同通信を退社する理由の1つになったと吐露している。また、ペルー事件をキッカケに退職していなかったら、新聞労組所属の共同通信労組の書記長に就任する予定だった。 海外留学経験は無いが、実務的議論が出来る英語力を持つ。海外では発音のフレーズ暗記によって相手が何を話しているか理解できるようになり、喋れるようになっていったと語っている。しかし虎ノ門ニュース出演中に、英単語の誤読を出演者のケント・ギルバードに指摘されたこともある。また、中国へ1人で行く前に成田空港にて本を使用し、北京でタクシー乗車時に行き先はメモで伝えた上で、「ゲオファキャオ(領収書ください)」をネイティブな中国語で話したことを人民解放軍の将軍に話したら大ウケして、会議の雰囲気が和んだことがあるとも話している。 シンクタンク研究員に転身以降、記者時代よりも多忙のため、仕事が軌道に載ると8〜10日位家に帰れない日が続いた。そのため、大手町の会社から神田の銭湯へ行き、会社の床にダンボールを敷いて会社に寝泊りしてレポートを纏める日々を過ごすようになった。また、三菱総研入社以降、2018年に至るまで、完全に休養する休日を1日足りとも取得していないと主張している。 民間人時代に国会の質疑で参考人招致されており、2004年4月23日に有事法制に伴う、国民保護法の第159回国会 武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会、2013年11月19日、特定秘密保護法をめぐる衆議院の国家安全保障に関する特別委員会で証言している。また、国家安全保障に関する特別委員会については、自民党からの推薦とされているが、「自民党から推薦されず衆議院事務局からの連絡のみであった」と質疑の中でも証言している。 末っ子であるが、長兄の家庭事情や青山が兄弟と腹違いな事もあり、母親を東京に呼び寄せて介護をしていた。また、青山と千春は自身の仕事で手が回らず、自宅での介護が不可能だったので、亡くなるまで杉並区内の病院が併設されている介護施設に入所させていた。青山の母親は、岡山県津山市の出身で、生前から箱根から以東の食事や文化に忌避意識が強く、東京に呼び寄せる時も青山が強引に伊丹空港経由で連れて行く形を取った。青山曰く、母親は自己矛盾の固まりであったと回想している。また、千春の母親も同介護施設に入所させて、夫婦共々の母親をその施設にて最後まで看取った。 参議院選挙期間中、公示日である2016年6月22日に天王寺駅から大阪高島屋前へ移動中街宣車が交通事故を起こし、むち打ち状態で選挙戦を戦った。
※この「人物とエピソード」の解説は、「青山繁晴」の解説の一部です。
「人物とエピソード」を含む「青山繁晴」の記事については、「青山繁晴」の概要を参照ください。
- 人物とエピソードのページへのリンク