人物とその周辺とは? わかりやすく解説

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人物とその周辺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:39 UTC 版)

清元榮壽郎」の記事における「人物とその周辺」の解説

若くして実力認められ名人五世延壽太夫立三味線を弾くようになるまた、延壽太夫の子四世栄壽太夫、五世延壽太夫没後社中統率し清元志壽太夫延壽太夫継がずして早世した父に代わり家元襲名した四世栄壽太夫の子息六世延壽太夫三味線勤めたまた、現・家元七世延壽太夫幼少期初舞台でも三味線勤め、五世延壽太夫から数えて直系四代三味線勤めたことになる。 特に志壽太夫とのコンビ絶妙といわれ、戦後清元黄金期築いた功績大きい。志壽太夫著書によると、「榮寿郎さんは、どんなに間の悪い太夫舞踊家に対しても、またどんな小さな舞台不本意な仕事であっても絶対に芸を投げなかった(いい加減な芸をしなかった)」(要約)といい、「細三味線持たせた榮壽郎さんの右に出るものはいない」とまで言わしめた。その類まれな技術心酔した志壽太夫は、長男の壽夫を三味線方にするべく榮壽郎に預けた(壽夫は後の清元榮三郎)。 その卓越した技量から紡ぎ出される音色演奏家舞踊家ともに絶大な評価得ていた作曲の才を、昭和に入って成立した新邦楽大和楽』の創始者大倉財閥総帥大倉喜七郎買われ成立間もない大和楽三味線方・作曲家としても活躍し、現在も繰り返し上演される『あやめ』・『團十郎娘』など初期名作残した人間国宝認定に際しては、清元界では一番早く、しかも15歳年上榮壽郎の修行時代には既に名声得ていた清元壽兵衛より一年早く51歳で認定受けていた中での急逝であった温厚な人柄多くの人に慕われ交友関係広く、また弟子養成にも優れ父・祖父と相次いで亡くした六世延壽太夫指導したばかりでなく、後に人間国宝認定受けた清元榮三郎清元榮三をはじめ、現在の認定者である清元清壽太夫名手として知られ二世清元一壽郎などを指導した。現在でも清元関係者からは尊敬敬愛の念をもって宮川先生」と呼ばれ遺作演奏されることも多い。清元という江戸からの伝統芸能従事していたが、日常生活では食道楽着道楽で、舶来物を好んだ

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人物とその周辺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 21:06 UTC 版)

清元榮三郎」の記事における「人物とその周辺」の解説

父に似て豪放磊落性格知られ幕内でも若手演奏家若手歌舞伎役者気軽に声をかけるなど気さくな人柄であった生業であった三味線こよなく愛し日々稽古怠らず毎朝助六』や『かさね』の前弾き前奏)を浚っていた。 また、国内はおろか私的な海外旅行であっても三味線持参し宿泊先稽古行った長男清元壽子太夫によると「旅行カバン財布よりも三味線先に持つほどで、時には『僕は部屋稽古してるから、みんなは観光しておいで』というほどだった」という)。 若くして清元節師匠としても活躍したが、演奏家芸妓などのプロへは非常に厳しく情熱的な指導行い多数演奏家育成した。特に身内への稽古厳しかったという。 晩年は癌に侵されながら(本人には告知されなかった)も舞台稽古勤め、師籍50年演奏会も行うなど、亡くなる間際まで活躍した死の床にあって三味線対す情熱衰えずうわ言口三味線呟いたり、意識薄れ行く中でも三味線を弾く仕草をしていたという。看病する妻に「僕は年内持たないだろう。正月迎えられないんだ」と死期悟り、その言葉通り2002年平成14年)の大晦日亡くなった2006年平成18年7月14日国立劇場において追善演奏会催され故人遺徳偲んだ

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人物とその周辺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/01 00:27 UTC 版)

清元梅吉 (4代目)」の記事における「人物とその周辺」の解説

幼少期より祖父二世寿兵衛厳し教えを受け、早くから天才少年の名をほしいままにした。 10代から歌舞伎興行出演してその技術磨き、その重厚且つ華麗な撥さばき解釈優れた演奏で、かつての清元節三味線名人清元榮壽郎をして他派ありながらあの子将来大物になるよ」と言わしめ、清元にはうるさかった舞踊家二世西川鯉三郎には「梅吉さんは憎らしいほど上手い」と大絶賛された。 54歳の頃、三味線方の職業病ともいえる腱鞘炎なりかけ医師の「演奏機会間引くように」とのアドバイス従ったため悪化免れたが、その時期より演奏機会著しく減少した歌舞伎興行には流儀として1977年昭和52年)頃を最後に出演しておらず、現在は舞踊会や素浄瑠璃演奏会主な演奏活動の場とし古典はもちろん、自身の作品祖父作品演奏しその継承努めている。 また、演奏のみならず祖父譲り才能作曲優れ清元もとより自身創始した風楽小唄新邦楽など作曲数は舞踊曲が約80曲、小唄150曲など多数に及び、舞踊台本解釈早く、しかも的確であるため舞踊作家舞踊家振付師信頼厚く、現在でも作曲依頼絶えないかつては20代東明節の三味線方としても活躍し絶大な評価得たが、師である東明舟の没後は「意に適う歌い手出会わないから」という理由演奏活動休止するなどこだわりの人でもある。 指導者として後進育成にも活躍し花柳界では東京赤坂京都上七軒京都女紅場学園などで舞妓芸妓指導にあたり、また一般愛好者指導プロ演奏家養成行っている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/22 15:45 UTC 版)

清元寿兵衛」の記事における「人物とその周辺」の解説

孤高名人としてその生涯送った五代目延寿太夫とは違って、寿兵衛には幅広い交友関係があった。寿兵衛のもとには多くの人が集い後援者には伊藤深水川口松太郎池田勇人など政財界著名人名を連ねた座談名手として知られ、どこの会合でも輪の中心となって座を盛り上げた。また大変な愛妻家ありながら艶聞家としても知られ、それにまつわる逸話をもまた座談の種にしてしまう豪快な人柄だった。

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