人物とその周辺
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若くして実力を認められ、名人五世延壽太夫の立三味線を弾くようになる。また、延壽太夫の子息四世栄壽太夫、五世延壽太夫没後の社中を統率した清元志壽太夫、延壽太夫を継がずして早世した父に代わり家元を襲名した四世栄壽太夫の子息六世延壽太夫の三味線も勤めた。また、現・家元七世延壽太夫幼少期の初舞台でも三味線を勤め、五世延壽太夫から数えて直系四代の三味線を勤めたことになる。 特に志壽太夫とのコンビは絶妙といわれ、戦後清元の黄金期を築いた功績は大きい。志壽太夫の著書によると、「榮寿郎さんは、どんなに間の悪い太夫や舞踊家に対しても、またどんな小さな舞台、不本意な仕事であっても、絶対に芸を投げなかった(いい加減な芸をしなかった)」(要約)といい、「細三味線を持たせたら榮壽郎さんの右に出るものはいない」とまで言わしめた。その類まれな技術に心酔した志壽太夫は、長男の壽夫を三味線方にするべく榮壽郎に預けた(壽夫は後の清元榮三郎)。 その卓越した技量から紡ぎ出される音色、演奏家・舞踊家ともに絶大な評価を得ていた作曲の才を、昭和に入って成立した新邦楽『大和楽』の創始者大倉財閥の総帥大倉喜七郎に買われ、成立間もない大和楽の三味線方・作曲家としても活躍し、現在も繰り返し上演される『あやめ』・『團十郎娘』など初期の名作を残した。 人間国宝の認定に際しては、清元界では一番早く、しかも15歳も年上で榮壽郎の修行時代には既に名声を得ていた清元壽兵衛より一年早く51歳で認定を受けていた中での急逝であった。 温厚な人柄で多くの人に慕われ交友関係も広く、また弟子の養成にも優れ、父・祖父と相次いで亡くした六世延壽太夫を指導したばかりでなく、後に人間国宝の認定を受けた清元榮三郎や清元榮三をはじめ、現在の認定者である清元清壽太夫、名手として知られた二世清元一壽郎などを指導した。現在でも清元関係者からは尊敬と敬愛の念をもって「宮川先生」と呼ばれ、遺作が演奏されることも多い。清元という江戸からの伝統芸能に従事していたが、日常生活では食道楽・着道楽で、舶来物を好んだ。
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人物とその周辺
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父に似て豪放磊落な性格で知られ、幕内でも若手演奏家や若手歌舞伎役者に気軽に声をかけるなど気さくな人柄であった。生業であった三味線をこよなく愛し、日々の稽古を怠らず、毎朝『助六』や『かさね』の前弾き(前奏)を浚っていた。 また、国内はおろか私的な海外旅行であっても三味線を持参し、宿泊先で稽古を行った(長男清元志壽子太夫によると「旅行カバンや財布よりも三味線を先に持つほどで、時には『僕は部屋で稽古してるから、みんなは観光しておいで』というほどだった」という)。 若くして清元節の師匠としても活躍したが、演奏家や芸妓などのプロへは非常に厳しく情熱的な指導を行い、多数の演奏家を育成した。特に身内への稽古は厳しかったという。 晩年は癌に侵されながら(本人には告知されなかった)も舞台や稽古を勤め、師籍50年の演奏会も行うなど、亡くなる間際まで活躍した。死の床にあっても三味線に対する情熱は衰えず、うわ言で口三味線を呟いたり、意識が薄れ行く中でも三味線を弾く仕草をしていたという。看病する妻に「僕は年内は持たないだろう。正月は迎えられないんだ」と死期を悟り、その言葉通り2002年(平成14年)の大晦日に亡くなった。 2006年(平成18年)7月14日、国立劇場において追善演奏会が催され故人の遺徳を偲んだ。
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人物とその周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/01 00:27 UTC 版)
「清元梅吉 (4代目)」の記事における「人物とその周辺」の解説
幼少期より祖父二世寿兵衛に厳しい教えを受け、早くから天才少年の名をほしいままにした。 10代から歌舞伎興行に出演してその技術を磨き、その重厚且つ華麗な撥さばき、解釈に優れた演奏で、かつての清元節三味線の名人清元榮壽郎をして他派でありながら「あの子は将来大物になるよ」と言わしめ、清元にはうるさかった舞踊家二世西川鯉三郎には「梅吉さんは憎らしいほど上手い」と大絶賛された。 54歳の頃、三味線方の職業病ともいえる腱鞘炎になりかけ、医師の「演奏の機会を間引くように」とのアドバイスに従ったため悪化は免れたが、その時期より演奏の機会は著しく減少した。 歌舞伎興行には流儀として1977年(昭和52年)頃を最後に出演しておらず、現在は舞踊会や素浄瑠璃の演奏会を主な演奏活動の場とし古典はもちろん、自身の作品、祖父の作品を演奏しその継承に努めている。 また、演奏のみならず祖父譲りの才能で作曲に優れ、清元はもとより自身が創始した奏風楽、小唄、新邦楽など作曲数は舞踊曲が約80曲、小唄が150曲など多数に及び、舞踊台本の解釈が早く、しかも的確であるため舞踊作家、舞踊家、振付師の信頼も厚く、現在でも作曲の依頼が絶えない。 かつては20代で東明節の三味線方としても活躍し絶大なる評価も得たが、師である東明柳舟の没後は「意に適う歌い手に出会わないから」という理由で演奏活動を休止するなどこだわりの人でもある。 指導者として後進の育成にも活躍し、花柳界では東京赤坂、京都上七軒、京都女紅場学園などで舞妓・芸妓の指導にあたり、また一般愛好者の指導、プロの演奏家の養成も行っている。
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人物とその周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/22 15:45 UTC 版)
孤高の名人としてその生涯を送った五代目延寿太夫とは違って、寿兵衛には幅広い交友関係があった。寿兵衛のもとには多くの人が集い、後援者には伊藤深水・川口松太郎・池田勇人など政財界の著名人が名を連ねた。 座談の名手として知られ、どこの会合でも輪の中心となって座を盛り上げた。また大変な愛妻家でありながら艶聞家としても知られ、それにまつわる逸話をもまた座談の種にしてしまう豪快な人柄だった。
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