系譜2
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:00 UTC 版)
特に注記の無いものは『寛政重修諸家譜』巻第三百九十五による。家紋は光季流は丸に桔梗、光永流は丸に九枚笹。 実線は実子、点線は養子。 (系不詳) (式部丞、善兵衛) 光季 光永 光猶 光有 須猶 有正 有勝 榊原直賢 直利 光正 中根正利 直広 (三次郎) 直刻 光禄 直刻 (万五郎) (豊次郎) (八十郎) 直棊 光福 松平忠之 (三吉) 直棊 光宝 直年 平岡良休 光賛 直房 (愛之助) (勇次郎) (藤十郎) 直照 (鉄吉) (安次郎) 直恭 直道 ほか、中野市、須坂市、上伊那郡宮田村にも小田切氏があり、海野氏の出と考えられている。中野市一本木の一本木公会堂の西にある無縫塔は南北朝時代の僧頼尊の五代の孫小田切仁兵衛が建立したといわれ、当地の小田切氏は頼尊の子孫と考えられている。須坂市の小田切氏もまた海野氏の出というが系不詳。幕末まで油屋・糸師・呉服商を営み、須坂藩の御用達を勤めた家で、「西糀屋」あるいは「大糀屋」を屋号とした。同家は嘉右衛門 - 武兵衛 - 沖兵衛と続き、沖兵衛の子小田切辰之助は須坂製糸業の発展に貢献した人物。元山形県知事の小田切磐太郎や高井繭糸会社を設立した小田切常三郎も同族である。上伊那郡宮田村南割の小田切氏は屋号を「大南」という。家伝によると、「大南」の小田切家から「四方川」の小田切家が分家し、のち天正年間に「四方川」の小田切家から「伏戸」の小田切家が分かれたと伝わる。他、北割村に江戸時代末期名主を勤めた「坪垣外」の小田切家もあり、5代当主小田切行雄は宮田村村長・長野県会議員を勤めた。
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