真書説
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一方で今福匡は現存する写本を比較した上で『「当時のままの字句」ではないという条件付きで、「直江状」の存在を容認したい』とし、(「既に家康なり秀忠なりによる下向(征伐)の用意を始めているという噂がある。それならすべてはその折りにお相手(迎撃)致そう」という挑発文言の入った)「直江状追而書」については笠谷和比古も指摘した「後代の偽作挿入の可能性」に留意しつつも、追而書のある直江状が徳川氏周辺から出ていることから、筆写の段階で欠落または意図的に削除された可能性を指摘している。また山本博文は後に三成の盟友となる大谷吉継が家康側として書かれているのは後世の偽作家には書けない表現であるとした上で、当事者しか知りえない事実が書かれているとして、原本か写しが存在したと見ている。 また作家の桐野作人は、 書状中に「可御心安候」という文言があることから直江は「尊意」とは明らかに区別して使用している (宮本が直江より身分的に上位とした)承兌は、直江とは連歌をともにしており、また豊臣姓を賜っている直江は陪臣ではないため、二人の身分の上下を測るのは難しい。敬語の用法がおかしいというより友人関係を反映した表現 大谷・増田の箇所は宮本の誤読であり、二人が上杉の上洛問題に関わることと三成の挙兵とは関係はない などと反論。豊臣政権の三奉行・三中老が家康の上杉征伐を諌めた連書状に「今度直江所行相届かざる儀、御立腹もっともに存じ候」とあることや、上杉景勝が重臣にあてた書状の内容が直江状に酷似している点などから、「多数の伝本があり、少なからず異同も見られるが、全体としては信用できる史料」とし、「追而書だけは後世の偽作の可能性がある」との見方を示した。 白峰旬は自身の研究の中で、直江状の写しが『上杉家御年譜』の「景勝公御年譜」、『歴代古案』、『覚上公御書集』のいずれにも収載されている点を指摘し、江戸期の上杉家の修史作業において、直江状が本物であるとみなされた可能性が高いと主張している。また直江状より少し後の慶長5年7月に、徳川秀忠が村上頼勝に、自らの書状に直江状の写しをつけて送付しているが、村上頼勝は当時堀秀治の与力大名であり、直江状送付の発端となった堀家に、上杉側の書状の内容を知らせる目的があったともしている。今福匡は「不特定多数の大名に写しが送られた」との見解を示しているが、白峰は、実際は堀家とその関係者には写しが送付されたと考えられるとみなしている。 福島県文化振興財団編の『直江兼続と関ヶ原』では、直江状の真偽について以下のような指摘がなされている。偽書であるという指摘の一つに、当時の高僧である西笑承兌に対しての返書としての表現が挙げられる。身分ある相手に対して、不敬とも考えられる体言止めの多用があり、その後に丁寧な文体の表現と一貫性を欠いた表現となるのが、不自然と捉えられる理由である。ただ直江状には感情の起伏による表現が窺えることから、むしろこのような書かれ方もありうる話であり、また体言止めの多用は、兼続が漢詩に通じていたからという見方もできる。また「増右・大刑少」という略称も、他の直江兼続の文書から窺えるように、本人が歯に衣着せぬ人物であったとすれば、うなずけるものである。 また日付に不自然な点が見られるという指摘もある。家康の使者伊奈昭綱が、承兌の書状を携えて伏見を発ったのは、慶長5年4月10日であるが、直江状にはその書状が4月13日に届いたとある。その当時伏見から3日で会津に届くのは不可能だが、承兌の書状の冒頭には「わざと飛礼をもって申し達し候」、つまり敢えて急ぎの便にて送るとある。また承兌の書状の末尾には「万端使者口上に申し含め候」とあるが、家康の使者である伊奈に、承兌が言い含めるというのも妙なことであり、承兌が伏見に滞在中の3月末から4月1日の間に書いた書状を、伊奈が届けたのではなく、それより前に急ぎの便で送ったということも考えられる。重大なことを急いで知らせるというのは、承兌と兼続の長年の交友関係による、兼続への気遣いとみなされる。 直江状には、承兌の書状冒頭にある「香指原新地」の築城(神指城)への質問に対する回答が記載されていない。真書であるとすれば、これは説明の必要がなかったのか、または説明が不可能であったのかのどちらかである。もしこれが後世の創作であるとすれば、創作者が神指城築城の意味を理解していなかった可能性もある。
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真書説
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『江源武鑑』が偽書ではなく、六角氏郷によって記されたという説は、郷土史家の田中政三、在野の歴史研究家佐々木哲などが支持している。田中は1979年(昭和54年)~1982年(昭和54年)に弘文堂から刊行された著書『近江源氏』1~3巻でその実在を唱えた。佐々木は『佐々木六角氏の系譜』(思文閣出版、2006年)『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』(思文閣出版、2007年)などで、「成立したとされる年代に登場人物がまだ生存していたこと」などを理由として『江源武鑑』を再評価している。 六角氏系図に関しては、佐々木氏一族である讃岐丸亀藩主京極氏、筑前黒田氏など大名家の記録にも事跡が記されている。『寛政重修諸家譜』(1789年 - 1801年)収録の六角旧臣山岡氏系図では、「佐々木義秀」の事蹟が記載されると主張している。 また、一次史料についても『萩藩閥閲録』所載、山内縫殿家文書にある天正4年10月3日六角義堯書状などが存在すると主張している。
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