一族の反乱
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弘治3年(1557年)2月21日、上村頼興が死去したため親政を行えるようになったが、このとき、頼房の家督相続に不満を持っていた叔父・上村頼孝が、弟の上村頼堅・稲留長蔵と共に頼房に対して謀反を起こした。3人は頼房を打倒し相良領を分割支配しようとしたが、家臣団の支持は集まらなかった。 頼房は老臣と協議して、まず6月10日に豊福城主の頼堅を八代の兵で討ち、福善寺に逃げた頼堅を捕えて同月13日に斬った。頼孝は久木野城に籠ったが、頼房の包囲軍は、頼孝の援軍に来た菱刈重任も返り討ちにし、7月25日にこれを落して、頼孝は菱刈に逃亡した。薩軍の増援を得て、大畑城・上村城・岡本城を攻撃して鎮圧。頼孝・長蔵は北原氏を頼って日向飯野に逃亡した。後の永禄3年(1560年)、僧を派遣して説得した結果、7月29日に士卒700名と共に頼孝が、その後に長蔵も帰参するが、これは偽計で、ほとぼりの冷めた永禄10年(1567年)に共に攻撃されて切腹を強いられた。 同じ年、追放されて出家していた犬童伝心が帰参し、頼房により還俗を許されて、美作守の通称を与え、上村地頭(上村城主)とした。 永禄2年(1559年)、この頃に名和氏により度々八代を攻められるようになった。また5月には、頼孝らの叛乱以降に関係の悪化していた菱刈氏により水俣城が落城するが、翌年7月に天草の上津浦氏の仲介で、水俣内の屋敷との交換により取り戻した。
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