一族の反乱とは? わかりやすく解説

一族の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:33 UTC 版)

相良義陽」の記事における「一族の反乱」の解説

弘治3年1557年2月21日上村頼興死去したため親政行えようになったが、このとき、頼房の家督相続に不満を持っていた叔父上村頼孝が、弟の上頼堅・稲留長蔵と共に頼房に対して謀反起こした。3人は頼房を打倒し相良領を分割支配しようとしたが、家臣団支持は集まらなかった。 頼房は老臣協議して、まず6月10日豊福城主の頼堅を八代の兵で討ち福善寺逃げた頼堅を捕えて同月13日に斬った。頼孝は久木野城に籠ったが、頼房の包囲軍は、頼孝の援軍に来た重任返り討ちにし、7月25日にこれを落して、頼孝は刈に逃亡した薩軍増援得て大畑城・上村城・岡本城攻撃して鎮圧。頼孝・長蔵北原氏頼って日向飯野逃亡した。後の永禄3年1560年)、僧を派遣して説得した結果7月29日士卒700と共に頼孝が、その後長蔵帰参するが、これは偽計で、ほとぼり冷めた永禄10年1567年)に共に攻撃され切腹強いられた。 同じ年、追放されて出家していた伝心帰参し、頼房により還俗許されて、美作守の通称与え上村地頭上村城主)とした。 永禄2年1559年)、この頃名和氏により度々八代攻められるようになった。また5月には、頼孝らの叛乱以降関係の悪化していた刈氏により水俣城落城するが、翌年7月天草の上浦氏仲介で、水俣内の屋敷との交換より取り戻した

※この「一族の反乱」の解説は、「相良義陽」の解説の一部です。
「一族の反乱」を含む「相良義陽」の記事については、「相良義陽」の概要を参照ください。

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