細川家の統治とは? わかりやすく解説

細川家の統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:31 UTC 版)

熊本藩」の記事における「細川家の統治」の解説

代わって同年豊前国小倉藩より細川忠利が入封し、検地による高直しで朱印高は54万石となる。以後廃藩置県まで細川家藩主として存続した。国人一揆多く難治の国と言われていた熊本入部に際しては、人気のあった加藤清正統治尊重し清正公位牌行列先頭掲げて入国し加藤家家臣肥後国人を多く召抱えたという。細川家は、手永(てなが)という独自の地方行政制度敷いた年貢概ね五公五民惣庄屋そうじょうや)と呼ばれるその手永の長が「改帳(あらためちょう)」を記録している(惣庄屋としては天保の大飢饉活躍した矢部手永」の布田保之助知られる)。 熊本藩には上卿三家といわれる世襲家老がおかれた。松井氏歴代八代城代であり、実質上の八代支藩であった)・米田(こめだ)氏(細川別姓である長岡姓も許されていた)・有吉氏三家で、いずれも時代からの重臣である。そのほか一門家臣として細川忠隆内膳家と、細川興孝の刑部家があった。支藩としては、のちに宇土藩肥後新田藩(のち高瀬藩)ができた。八代城一国一城令対象外とされた。 忠利は晩年宮本武蔵迎え入れ島原の乱活躍した。忠利死去2年後寛永20年1643年)、忠利への殉死をめぐり反乱起きた森鷗外の「阿部一族」のモデルとなる)。2代光尚は7歳の綱利を残して死したので御家断絶危機があったが、無事に綱利が家督継いだ3代綱利の時に大石良雄赤穂義士17人を白金屋敷預かり切腹任された。綱利は「赤穂義士細川家守り神である」とし、遺髪分けて頂き切腹場所に墓や供養塔建てた享保7年1722年)からは連年のように天災起こり享保17年1732年)には、凶作餓死者が6000人近く出たと言われている。しかも同年熊本藩幕命によって利根川普請15万両支出負担担い、藩財政破綻寸前となった延享2年(1745)年)に火災でこの白金下屋敷火災焼失した5代宗孝は延享4年1747年江戸城中で乱心した旗本板倉勝該に斬られて死去した細川家では人違い九曜家紋間違い)による(紋所似ていた板倉本家板倉勝清との誤殺)とし、以後細川家家紋九曜紋は「細川九曜」「離れ九曜」と呼ばれるものに変えられた。ただし、刃傷が「遺恨」(細川家下屋敷からのたびに排水が、隣接する勝該の屋敷へと流れ落ちてきた事を逆恨みした。)によるものであり、はじめから宗孝が標的だったとする説もある。 仙台藩主伊達宗村機転利かせた助言で、既に死んでいた宗孝はまだ息があったことにして細川屋敷にこっそり運び出され翌日死亡したことにされた。弟の重賢が急遽藩主の座に就いた浅野家と絶縁状態にある恩人伊達家配慮し赤穂義士遺構破壊されている。重賢は堀勝名大奉行抜擢して倹約支出削減推進宝暦5年1755年)には藩校時習館開き行政と司法分離して刑法改正律令法参照)、藩の機構整備するなどの宝暦の改革行い中興の祖となった江戸時代通じて熊本藩では九州の他藩に比べて百姓一揆少なく島原の乱天草唐津藩領)、農民比較的豊かで領地統治良かったともいわれる。それでも光尚・綱利・宣紀・宗孝・治年の代には阿部一族反乱暴動直訴イナゴ飢饉)・打ちこわし米価高騰による)・騒動銀札失敗による御銀所騒動)が起きている。 藩財政江戸初期から火の車であり、綱利のように力士大勢召し抱える武断派藩主による浪費などで、藩は江戸大坂大商人からの多額借金何度も踏み倒しており(藩内で一揆があれば改易御家断絶があるが、大商人借金を返さなくとも幕府から改易の心配はない)、大商人たちからは貧乏細川嫌われたという。 幕末には藩論勤王党時習館党、実学党の3派に分かれた実学党中心横井小楠である。小藩政改革携わった失脚安政5年1858年)に福井藩松平慶永誘いより政顧問として福井藩移った。小は、文久2年1862年)に江戸留守居役らと酒宴中に刺客襲われ一人逃亡したという罪で、翌年熊本藩士の籍を剥奪されている。 安政7年1860年)、桜田門外の変では大関和七郎ら4名は、熊本藩邸の8代斉護へ趣意書提出し自訴した。熊本藩安政の大獄では誰も罰されてない上に、細川家でも江戸城で宗孝が襲撃により落命しているため、趣意取り上げられる事はなかった。間を置かず全員他家預け替えられている。 元治元年1864年)の池田屋事件で、勤王党中心人物宮部鼎蔵死亡した。これにより時習館党が主流となったが、藩論不統一のままだった。戊辰戦争では、薩長主導明治新政府加わり江戸無血開城後は、上野寛永寺一帯立てこもった彰義隊討伐参戦した

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