細川家の統治
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代わって同年豊前国小倉藩より細川忠利が入封し、検地による高直しで朱印高は54万石となる。以後廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。国人の一揆が多く難治の国と言われていた熊本入部に際しては、人気のあった加藤清正の統治を尊重し、清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという。細川家は、手永(てなが)という独自の地方行政制度を敷いた。年貢は概ね五公五民で惣庄屋(そうじょうや)と呼ばれるその手永の長が「改帳(あらためちょう)」を記録している(惣庄屋としては天保の大飢饉に活躍した「矢部手永」の布田保之助が知られる)。 熊本藩には上卿三家といわれる世襲家老がおかれた。松井氏(歴代八代城代であり、実質上の八代支藩主であった)・米田(こめだ)氏(細川別姓である長岡姓も許されていた)・有吉氏の三家で、いずれも藤孝時代からの重臣である。そのほか一門家臣として細川忠隆の内膳家と、細川興孝の刑部家があった。支藩としては、のちに宇土藩と肥後新田藩(のち高瀬藩)ができた。八代城は一国一城令の対象外とされた。 忠利は晩年の宮本武蔵を迎え入れ、島原の乱で活躍した。忠利死去の2年後の寛永20年(1643年)、忠利への殉死をめぐり反乱が起きた(森鷗外の「阿部一族」のモデルとなる)。2代光尚は7歳の綱利を残して早死したので御家断絶の危機があったが、無事に綱利が家督を継いだ。 3代綱利の時に、大石良雄ら赤穂義士17人を白金の屋敷に預かり、切腹を任された。綱利は「赤穂義士は細川家の守り神である」とし、遺髪を分けて頂き切腹場所に墓や供養塔を建てた。享保7年(1722年)からは連年のように天災が起こり、享保17年(1732年)には、凶作で餓死者が6000人近くも出たと言われている。しかも同年、熊本藩は幕命によって利根川普請で15万両の支出負担を担い、藩財政は破綻寸前となった。延享2年(1745)年)に火災でこの白金下屋敷が火災で焼失した。 5代宗孝は延享4年(1747年)江戸城中で乱心した旗本・板倉勝該に斬られて死去した。細川家では人違い(九曜家紋間違い)による(紋所の似ていた板倉本家・板倉勝清との誤殺)とし、以後は細川家の家紋の九曜紋は「細川九曜」「離れ九曜」と呼ばれるものに変えられた。ただし、刃傷が「遺恨」(細川家の下屋敷から雨のたびに排水が、隣接する勝該の屋敷へと流れ落ちてきた事を逆恨みした。)によるものであり、はじめから宗孝が標的だったとする説もある。 仙台藩主伊達宗村の機転を利かせた助言で、既に死んでいた宗孝はまだ息があったことにして細川屋敷にこっそり運び出され、翌日死亡したことにされた。弟の重賢が急遽藩主の座に就いた。浅野家と絶縁状態にある恩人の伊達家に配慮し、赤穂義士の遺構は破壊されている。重賢は堀勝名を大奉行に抜擢して倹約と支出削減を推進、宝暦5年(1755年)には藩校時習館を開き、行政と司法を分離して刑法を改正(律令法参照)、藩の機構を整備するなどの宝暦の改革を行い、中興の祖となった。 江戸時代を通じて熊本藩では九州の他藩に比べて百姓一揆が少なく(島原の乱の天草は唐津藩領)、農民は比較的豊かで領地の統治は良かったともいわれる。それでも光尚・綱利・宣紀・宗孝・治年の代には阿部一族の反乱・暴動・直訴(イナゴ飢饉)・打ちこわし(米価高騰による)・騒動(銀札の失敗による御銀所騒動)が起きている。 藩財政は江戸初期から火の車であり、綱利のように力士を大勢召し抱える武断派の藩主による浪費などで、藩は江戸・大坂の大商人からの多額の借金を何度も踏み倒しており(藩内で一揆があれば改易・御家断絶があるが、大商人の借金を返さなくとも幕府から改易の心配はない)、大商人たちからは貧乏細川と嫌われたという。 幕末には藩論が勤王党、時習館党、実学党の3派に分かれた。実学党の中心は横井小楠である。小楠は藩政改革に携わったが失脚、安政5年(1858年)に福井藩主松平慶永の誘いにより政治顧問として福井藩に移った。小楠は、文久2年(1862年)に江戸留守居役らと酒宴中に刺客に襲われ一人逃亡したという罪で、翌年に熊本藩士の籍を剥奪されている。 安政7年(1860年)、桜田門外の変では大関和七郎ら4名は、熊本藩邸の8代斉護へ趣意書を提出し自訴した。熊本藩は安政の大獄では誰も罰されてない上に、細川家でも江戸城で宗孝が襲撃により落命しているため、趣意が取り上げられる事はなかった。間を置かず全員が他家に預け替えられている。 元治元年(1864年)の池田屋事件で、勤王党の中心人物宮部鼎蔵が死亡した。これにより時習館党が主流となったが、藩論は不統一のままだった。戊辰戦争では、薩長主導の明治新政府に加わり、江戸無血開城後は、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦した。
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