惣庄屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 18:27 UTC 版)
惣庄屋(そうじょうや)は、郡代の配下にあり、他藩で言う大庄屋にあたる(肥後藩でも対外的には大庄屋と称した)。下役に、庄屋、手代、給人庄屋があり、庄屋の配下に帳書、組頭(頭百姓)、役頭、蔵頭、五人組頭(伍長)が置かれた。 惣庄屋には地元の有力者、庄屋や旧菊池・阿蘇氏家臣などが任命されることが多かった。武士と同様に当初は世襲制が強かったが、やがて実力の伴わない者は任を受けなくなり、任命制へと変わっていった。惣庄屋を含め藩役人の手永間の転勤なども実施されるようになった。幕末まで歴代、惣庄屋の職務を受けた家は、布田家などわずかである。 異なる手永で仕事に励むことで、広い見聞と知識を身に着け、人材交流を図ることも出来、その後の仕事に役立つことになった。近代技術の集大成と言われる通潤橋が出来た一つの理由として、惣庄屋である布田保之助が別の手永で勤務経験をしていたことが大きく影響している。また、八代海の干拓で知られた鹿子木量平も同様に各地の手永で惣庄屋を経験している。 時代を経るにつれ、武士というよりも、地方政務官、首長的な性質を帯びていった。惣庄屋は年貢の請負や民政の運営に当たり、藩の上役・郡代に上申なども行った。 郡代の下役には、惣庄屋のほかに、横目、山支配役、塘方(ともかた)普請方があった。横目は郡代の下に付いて諸事に目を配る役で、しばしば惣庄屋の嗣子が最初に就く見習い的な職だった。
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