惣年寄の起こり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 02:07 UTC 版)
17世紀中ごろまでに成立した大坂三郷の町の行政を担当したのが、町人の中から選ばれた三郷惣年寄とその下に属する町役人であった。大坂三郷の統治は、大坂城代-大坂町奉行-惣年寄-町年寄-町民(町人・借家人)という体制で行われた。 惣年寄は、元和元年(1615年)、松平忠明が大坂城の城主であった時に天満地子銀取立役の中から任命された元締衆が、元和5年(1619年)に大坂町奉行が設置された時に惣年寄と改称されたものである。その際、各町の有力な町人を町年寄とした。惣年寄の多くは大坂の開発町人で、北組・南組・天満組で分かれており、世襲制であった。人数は当初は北組10人、南組6人、天満組5人であった。この人数は時代によって変化し、3組で計10 - 20人前後であった。惣年寄は名誉職で、給料は無いが、公役・町役の一軒役(後に五軒役)を免除され、年頭や八朔の礼銭・祝儀を受けた。公役というのは惣会所経費・消防費などの諸費用の負担で、町役はそれぞれの町の町会所費用・橋の普請費用など町の運営費の負担のことである。 元締衆は、元和2年(1616年)に大坂城下で人望のある富豪を選び城下町の町割をさせ、水帳を作らせて地子を徴収させたのが始まりである。水帳というのは土地の面積・所有者等を記したもので、町ごとの繁盛の差異や経済力の差で等級をつけた。
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