城下町の町割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 02:56 UTC 版)
老中首座で「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱によって形作られた川越の町割は、「十ヵ町四門前町」(じっかちょうしもんぜんまち)に郷分・城付を設けた合理的なもので、三方を低地と河川で囲まれた防衛に最適な台地の形状に合せて城と城下町が配置された。台地の北西端にあった城は、台地を開削して西へ大きく拡張され、その本丸の北側に総鎮守の氷川神社が置かれた。 城の表玄関である西大手門(現在の市役所)の前は、伝馬問屋の置かれた江戸町で、そこを基点に南方に川越街道が江戸まで伸びた。西大手門から西へ進む先には高札場である「札の辻」が設けられた。ここを軸に縦二十三条、横七十八条の概ね碁盤の目状に町割がなされた。また、袋小路・鉤の手・七曲り・丁字路など城下町特有の街路が作られた。 札の辻を中心とした一帯が城下の商人地区である上五ヶ町である。その南北の目抜き通りが、今日では蔵造りで有名な「一番街」である。町屋は概ね間口数間、奥行15間から20間の短冊型に区切られた。上五ヶ町に隣接して、時の鐘も建つ職人町の下五ヶ町があった。ここまでが町奉行の管轄であった。 一番街の西側には養寿院、行伝寺、妙養寺、南側に蓮馨寺があり、4つの門前町を形成した。町火消しはここまで担当した。 上五ヶ町 江戸町(えどまち):川越街道の基点で、川越城西大手門前の南北の地区。人馬継ぎ立てをする問屋や蔵米の点検をする改があった。 本町(ほんまち):西大手門から札の辻に至る大通り地区。 南町(みなみまち):札の辻から南側。大店の呉服問屋が連なり隆盛した地区。蔵造りで有名な現在の川越一番街。西側に養寿院門前(門前横丁)と行伝寺門前(出世横丁)が伸びる。 喜多町(北町。きたまち):札の辻から北側の地区。河越夜戦の舞台となった東明寺の門前町だった。 高澤町(たかざわまち):札の辻から西側、高澤橋までの地区。江戸時代は特産品のそうめんを作る店を軒を連ねた。菓子製造の家も多く「菓子屋横丁」として現存している。 下五ヶ町 鍛冶町(かじまち):南町のさらに南側の地区で、現在は一番街の仲町交差点北側にあたる。北条氏が相模から鍛冶職を移住させ鍛冶の町となった。 多賀町(たがまち):時の鐘のある現在の鐘つき通りの地区。桶屋・大工の集まった職人街。 鴫町(志義町。しぎまち):現在の仲町交差点の東西にあたる地区。鍛冶町の刀匠・鴫善吉が開いたので名が付いた。穀物問屋が軒を連ね、米市の取引量は武蔵国最大であった。川越藩の馬場もあった。妙養寺門前に連なる。 志多町(下町。したまち):喜多町のさらに北側、東明寺橋までの地区。東明寺の広大な境内が町になった場所で、東明寺坂を下った位置であることから、古くは下町と呼ばれた。 上松江町(かみまつえちょう):川越街道の江戸町より南側の地区。江戸から見ると川越城下の入口であり、宿場として栄えた。蓮馨寺門前(立門前通り)が西に伸びる。 城の南側には江戸幕府の直営社であった喜多院や仙波東照宮が広大な寺領を構えた。これは軍事的配置でもあった。 城の周囲は堀が張り巡らされ、家老などの上級藩士の武家屋敷は、南大手門周辺の堀の南側に建ち並んでいた。下級藩士は川越街道の入口近くの組屋敷に住まわされた。武家地は藩の加増に伴い、街道沿いに南へと開発されてゆき、1778年(安永7)の地図では、中心市街地から離れた現在の川越駅付近まで拡大していた。 城下の南方には川越の外港である川越五河岸が設けられ、大きな物資は船でしか運べなかった時代における、川越の物流拠点であった。
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