城下町が形成されるに至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/25 22:09 UTC 版)
「本庄城 (武蔵国)」の記事における「城下町が形成されるに至るまで」の解説
実忠が本庄城を築いたのは60歳前後の時であった。100年近く本庄氏が本拠地としていた東本庄館を去り、一から城下町を築いていった。『徳川時代之武蔵本庄』(諸井六郎著)によると、弘治2年(1556年)の頃は、まだ城下町として完全には成しておらず、野原中に12の農家の散在と利根川沿岸の花の木・本宿・籠瀬(現在の台町永峯付近)に十数戸の民家が存在したに過ぎなかった、とある。古老の伝えでは、花の木18軒の古百姓は、本庄氏が築城して土着する以前から在住していた者達であったという。弘治・永禄年間の頃(1555年 - 1570年)より、戸谷・諸井・森田・内田・田村などなど、新田氏の遺臣を本庄村に移住させ土着させることにより開墾が進み、本庄氏が没落した天正18年(1590年)の頃には、城下町の大きさは15町50間となり、農家が38軒にまで達した。約2、30年の間に城下町が形成されたことが分かる。
※この「城下町が形成されるに至るまで」の解説は、「本庄城 (武蔵国)」の解説の一部です。
「城下町が形成されるに至るまで」を含む「本庄城 (武蔵国)」の記事については、「本庄城 (武蔵国)」の概要を参照ください。
- 城下町が形成されるに至るまでのページへのリンク