城下東側
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:51 UTC 版)
笠岡町 笠岡街道(鴨方往来)の入口にあった。新橋筋の北側の町筋である。笠岡から招かれた商人が住んだともいわれる。水野時代中期に成立したと思われる。御船入の近くに牢獄(獄屋)があり、船町の人打場で打擲した罪人を繋いだといわれる。現在の笠岡町と今町の一部。 今町 水野時代後期までに成立した町で他の町に比べて遅く成立したことから名付けられたと思われる。新橋筋の北側の町筋で笠岡町の北側、大黒町の南側にある。現在の今町、大黒町の一部。 大黒町 城下北東の出入口である惣門の南の街筋で今町の北側、胡町の南側にある。商人が縁起を担いで名付けたと言われる。現在も大黒町の名称が残されているが、町域は今町、府中町、東町の一部を取り込んで拡大している。 胡町 城下北東の出入口である惣門の南側の街筋で大黒町の北側にある。築城時は侍屋敷であったが、惣門の設置により町屋となったといわれる。隣接する大黒町にちなんで胡町と名付けられたといわれる。現在も町名は残される。なお、前述の総門は模擬的に復元されている。 桶屋町 深津町の南側の町筋である。桶屋が多く住んだといわれる。町名は1965年(昭和40年)に廃止され現在は宝町の一部。 魚屋町 福山城北御門前、現在の本町周辺にあった。物流の拠点である運河から離れた位置にあるのは城下建設当初は外堀と運河とを区切る堤防(築切)がなく舟で直近の外堀まで往来できたためだといわれる。町名は1965年(昭和40年)に廃止され現在は城見町の一部。 本町 桶屋町の南側の町筋である。城東部の町屋では最初に成立したといわれる。かつては城下北東の出入口である総門に通じ城下で最も栄えていたといわれるが、水野勝俊の時代に総門が胡町筋に移転したため衰えたという。 鍛冶屋町 本橋筋と新橋筋の間に連なる通りの南側の町筋である。入川の北岸、府中町の南側にある。刀鍛冶が多く住んだといわれる。町名は1965年(昭和40年)に廃止され現在は宝町、今町、城見町のそれぞれ一部。 米屋町 東外堀と本橋筋の間を南北に連なる町筋である。町の南端付近に藩の米蔵(長蔵)があり、この売買を任されていた。町名は1965年(昭和40年)に廃止され現在は宝町の一部。 府中町 本橋筋と新橋筋の間に連なる通りの北側の町筋である。鍛冶屋町の北側にある。府中から招かれた商人が住んだといわれる。町名は1965年(昭和40年)に廃止され現在は城見町及び大黒町の一部。 深津町 城下建設時に深津村(現在の市内東深津町)の商人を招いて命名されたといわれる。本橋筋の北側、桶屋町の南側の町筋である。町名は1965年(昭和40年)に廃止され現在は宝町の一部。 船町(北側) 入川沿いの北側にあった。北船町ともいう。概ね現在の船町である。本橋と新橋の間に番所(中番所)があり、この東側に罪人を打擲する人打場と呼ばれる施設があった。福山では新橋筋(本通り)と並ぶ繁華街であった。町名は現在も残るが、町域は縮小されており、かつては延広町、元町の一部を含んでいた。 三河町 市内寺町にある大念寺前の通りを示す名称で越後騒動により処分された松平光長の養子で福山藩預かりになった松平綱国の住まいがあった事に由来するといわれる。
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