城下町の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 15:21 UTC 版)
城下町の戸数は3,500戸であった。現存する記録では、城があった頃の多気の様子を山間の辺鄙(へんぴ)なところとして描いている。天保10年(1839年)の斎藤正謙著『伊勢国司紀略』によると、国司館(多気御所)から南に1町、東に5町、北に10町のところにそれぞれ家臣団の屋敷があり、有力な家臣の藤力屋敷は半町四方(=900坪)であった。寺院は鎮福利院など約20寺が東と北の屋敷の外側に散在していたが、神社は少なかった。 霧山城下に居を構えた家臣は複数の史書を照合すると700人から1,000人ほどで、全家臣15,000人のうちの20分の1から15分の1が多気に控えていたことになる。多気御所の左右両側は御犬馬場、御的場、御米土蔵、重臣・内者の屋敷など約200の建物が並んでいた。ほかに市場や御用主屋舗が数か所に分かれて集中し、商工業者も少なからず集まっていた。『多気分野図』を読むと、武士と庶民が混住しているように見えるが、現存する地名を分析すると、庶民は南方や東方に多くいたようである。 天正4年(1576年)の霧山城落城により城下町も消えていったが、江戸時代にはお伊勢参りの人々が集う宿場町として再生した。21世紀初頭には「山深いのどかな里」となり、旧家が建ち並ぶ。
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