城下町の建設
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陣屋の築塁と共に城下町の建設も進められた。江戸から従ってきた家臣には貸下げ金を支給し、町民には宅地と2反歩の菜園を無償で与え、城下への移住を促進した。町割りは、陣屋の東と北に武家屋敷を配置し、その武家屋敷を囲むように総構え外堀(当時は溝と呼んでいた)があった。そして総構えの外側には町民の宅地が広がっていた。
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城下町の建設
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1603年(慶長8年)9月、徳川家康より築城の許可を得た毛利輝元は、10月、山口に帰着すると、藩府の候補地に防府の桑山、山口の鴻ノ峰、萩の指月山を選定。福原広俊を江戸に上らせ、老中本多正信と折衝させる。当初、福原は山陽道沿いの桑山、桑山が不可なら鴻ノ峰をと希望し「引こみ過ぎたる所」として指月に難色を示したが、本多は「当時の御分際にては成らざる山に候。ただ指月然るべき所に候」として指月が選定された。町割は萩城の築城と並行して行われたと考えられ、家臣の宅地は、1605年(慶長10年)に定められている。その前年、萩に入城した毛利輝元の命により、狩野太郎左衛門に命じて作らせた絵図が都市設計の原型となったと考えられる。町割は道路を基本として、二の丸南門から始まる御成道が幹線道路として機能し、そこから古萩・堀内の町割を行ったものと考えられている。一方、江向や平安古地区では、御成道と道が平行しておらず、江向では御許町筋、平安古では、郊外の山田条里を基軸に採用したと「萩図誌」は言う。江向の市民会館の横の原標石は、市民会館建設の際に10メートルほど東南の現在の場所に移されたものであるが、町割の際の基準点となったものである。これらを基準に碁盤の目状に町割がなされたのであるが、平安古の鍵曲(かいまがり)や古萩の寺町一帯を始めとして城下町の防衛上の配慮から意図的に基軸からずらされた場所も散見される。町割の頃の萩は「長門金匱」が「其の節萩は以ての外田舎にて、川上より今の御城下までは竹木茂り、堀内より浜崎までは松原にて、(中略)、今の田町通りより南東は皆沼にて、芦原の水溜まりなり、田も聢々これ無く、よき道もなし。」とあるように、城下の竹木や松原、沼地を開拓しなければならず、かなりの労を要したと考えられており、毎年の幕府に対する普請や旧領6ヶ国の既収租米を新領主に弁済しなければならない、いわゆる「六ヶ国返租問題」でただでさえ火の車であった藩の財政悪化に拍車をかけることとなった。 1604年(慶長9年)6月に萩城の縄張りが終わると、翌年、諸士に宅地の配分を行った。石高3000石以下は900坪、1500石以下は600坪、450石以下は400坪、150石以下は200坪、徒士・三十人通りは120坪、陣僧・足軽以下は70坪が配分された。「万治制法」によると侍屋敷が配置された地区は、堀内・古萩を超え、平安古・古春日・土原・金谷・雑色町にも及んだが、堀内は支藩主や毛利家一門など上流の侍に当てられ、古萩は町人や寺社などの混在地域、古春日(後の江向)は、百姓との混在地域、橋本・唐樋は線状に続き、後に多くが町屋となった。金谷・雑色町は椿町の周辺に侍屋敷が分布、川島から土原にかけて最も多くの侍屋敷があった。侍屋敷は平安古・江向・土原でその後増加し、古萩は町人地に変化していき、貞享の頃には城下町の完成を見たと考えられる。同年11月、輝元入城。この段階では一部建物ができたに過ぎなかったが、直接城下町建設の指揮を執るために入城を早めたと考えられている。 町人地の中心は古萩に置かれたが、初期の町人の多くは、輝元が萩に城を建設することが決まった際に山口などから呼び寄せたものであり、町づくりはこうした町人の協力のもとに行われたのであった。
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