本多家(彦次郎家)統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 20:18 UTC 版)
「岡崎藩」の記事における「本多家(彦次郎家)統治時代」の解説
慶長6年(1602年)2月に徳川氏譜代の重臣本多康重(本多彦次郎家)が上野国白井藩より5万石で入った。これが、岡崎藩の立藩である。康重は家康の信任が厚く、3万石加増の5万石で藩主となっている。慶長9年(1604年)に検地を実施し、東海道の整備、城下町の建設などに尽力したが、岡崎は立地条件が悪く、「岡崎の27まがり」と呼ばれて細長い城下町になったという。 第3代藩主本多忠利時代の寛永11年(1634年)、5000石の加増を受ける。正保2年(1645年)6月27日、第4代藩主本多利長は遠江国横須賀藩5万石へ移封された。
※この「本多家(彦次郎家)統治時代」の解説は、「岡崎藩」の解説の一部です。
「本多家(彦次郎家)統治時代」を含む「岡崎藩」の記事については、「岡崎藩」の概要を参照ください。
本多家(平八郎家)統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 20:18 UTC 版)
「岡崎藩」の記事における「本多家(平八郎家)統治時代」の解説
それと入れ替わる形で本多忠粛(本多平八郎家)が5万石で入る。こうして藩主家は定着した。本多平八郎家の統治時代は、藩財政難に悩まされた時代である。本多平八郎家は本多忠勝以来の名門であったが、相次ぐ移封と石高に較べての家臣の多さから財政は窮乏していた。 第2代藩主本多忠典は中根忠容を家老に登用し、さらに服部平兵衛も登用して財政再建を目指した。さらに江戸商人三谷喜三郎の協力を得て緊縮財政政策を実施し、財政改革は一時的な成功を収めた。また、矢作川沿いの農村で綿作が盛んに行なわれ、三河木綿が生産されるようになった。しかし天保期には飢饉が続いて一揆も起こり、財政窮乏が再びひどくなった。 第5代藩主本多忠民は再び財政改革を行ない、農村有力者と協力して再建に当たった。一方で忠民は京都所司代・老中として幕末の幕政に参与し、公武合体に尽力した。しかしこのため、藩内では佐幕派と尊王派で争い、脱藩者も出る騒動が起こった。 第6代藩主本多忠直時代の明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれて岡崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となった。 岡崎藩の歴代藩主は全て譜代大名であり、徳川氏より信任が厚く、もしくは縁も深い人物が多かった。
※この「本多家(平八郎家)統治時代」の解説は、「岡崎藩」の解説の一部です。
「本多家(平八郎家)統治時代」を含む「岡崎藩」の記事については、「岡崎藩」の概要を参照ください。
- 本多家統治時代のページへのリンク