本多家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:19 UTC 版)
大河内松平家に代わり、三河刈谷より5万石で本多家の本多忠良が入る。この本多家は徳川家康の時代に武功を挙げて幕府創業に貢献した徳川三傑の本多忠勝の家系であり、忠良はその第8代当主に当たる。もともと本多忠勝宗家は15万石の知行があったが、移封の2年前、越後村上の藩主時代の時に当主の本多忠孝がわずか7歳で死亡して継嗣が無かったため、本来なら断絶するところを忠勝宗家ということもあり特別の配慮をもって分家の忠孝が跡を継いだが、その代償として10万石を削減されて5万石になっていた。ただし忠勝宗家という名族のため、江戸城内では10万石の格式を許され、忠良自身は第8代将軍吉宗の時代に西の丸老中・本丸老中を歴任している。忠良は宝暦元年(1751年)に病死し、次男の忠敝が第2代藩主となった。そして宝暦9年(1759年)7月に石見浜田へ移封となる。 なお、この本多家の支配は47年間と、入れ替わりの激しい古河藩主家の中では土井家に続く長さであった。
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