本多家の再入部
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代わって、以前に膳所を領していた本多俊次が7万石で膳所に再び入部し、以後は本多家の領地として固定することとなった。そして俊次から第3代藩主・本多康慶の頃にかけて瀬田川の治水工事、新田開発、窮民に対する福祉政策や火事対策、京都警備などの諸改革が行なわれて藩政は安定化した。しかし江戸時代中期頃から藩財政が窮乏化したため、第9代藩主・本多康匡は中根善右衛門を登用して財政改革を主とした藩政改革を断行したが、この改革が領民に御用銀を賦課するというものであったため、天明元年(1781年)に改革に反対する百姓一揆や打ちこわし、強訴が起こり、同年末にも打ちこわしが発生した。おまけに藩主の康匡が年末に死去したため、改革は完全な失敗に終わった。 そして、第10代藩主・本多康完の時代には有名な「御為筋一件」が起こった。前述したように膳所藩では江戸時代中期頃から財政が窮乏化して衰退していたが、それに加えて家老の本多内匠と鈴木時敬が藩主が短命かつ若年であることをよいことに領民に対して悪政を敷いて専横を極めた。康匡は2人を排除して実権を取り戻し、中根を登用して改革を行なったが、領民に負担をかける財政改革だったため、領民が百姓一揆を起こして失敗したうえ、その一揆が起こった同年末には康匡が死去して若年の康完が跡を継いだ。すると失脚していた本多内匠と鈴木時敬は康完が若年であるのをよいことに復職を果たし、またも専横を極めた。しかも藩財政が窮乏化している中で奢侈を奨励したため、領民はもちろん家臣団の内部でも内匠と時敬の排除を求める声が高まった。幕府にもこの騒動が聞こえるようになると、幕府の裁定により本多修理(内匠と時敬の対立者で、倹約を主とした藩政改革を唱えていた)を家老として藩政改革を行なうように命じ、2人の奸臣をはじめとする一派は処刑、永牢、追放の処分を下された。こうして、騒動はようやく鎮まり、その後は修理のもとで藩政改革が行なわれ、文化5年(1808年)には藩校・遵義堂が創設された。 幕末期、最後の藩主である本多康穣の代に、藩内では尊王攘夷派と佐幕派が藩の主導権をめぐって争った。将軍・徳川家茂の膳所宿泊予定が中止になるほどであったが、藩内部でやがて佐幕派が力を盛り返し、阿閉権之丞ら尊王派11名を処刑した。また尊王派の先鋒の川瀬太宰も幕吏新撰組に捕えられ殺される。川瀬太宰は筆頭家老戸田資慶の叔父でもあった。その後、その川瀬が藩主にも説いた尊王論が盛り返し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して桑名藩攻めに出兵した。 翌年の版籍奉還により、康穣は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で膳所藩は廃藩となって膳所県、大津県を経て、滋賀県に編入された。 膳所藩は1865年4月、全国に先駆けて「廃城願い」を出した。膳所城は湖に突き出た水城で、維持費が嵩むうえに近代戦に不向きなため、一説には天守閣から石垣に至るまでを1200両で売りに出されたとも言う。廃城に至り、元藩士の伊藤久斉はショックのあまり発狂し物乞いになったが、町民の尊敬を受けていて、1921年に亡くなった際には町民による町民葬が行われた。
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