本多家の再入部とは? わかりやすく解説

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本多家の再入部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:05 UTC 版)

膳所藩」の記事における「本多家の再入部」の解説

代わって、以前膳所領していた本多俊次が7万石膳所に再び入部し以後本多家領地として固定することとなった。そして俊次から第3藩主本多康慶の頃にかけて瀬田川治水工事新田開発窮民対す福祉政策火事対策京都警備などの諸改革が行なわれて藩政安定化した。しかし江戸時代中期頃から藩財政窮乏化したため第9代藩主本多康匡中根右衛門登用して財政改革を主とした藩政改革断行したが、この改革領民御用銀賦課するというものであったため、天明元年1781年)に改革反対する百姓一揆打ちこわし強訴起こり同年末にも打ちこわし発生したおまけに藩主の康匡が年末死去したため、改革は完全な失敗終わった。 そして、第10代藩主本多康完時代には有名な御為筋一件」が起こった前述したように膳所藩では江戸時代中期頃から財政窮乏化して衰退していたが、それに加えて家老本多内匠鈴木時敬が藩主短命かつ若年であることをよいことに領民に対して悪政敷いて専横極めた。康匡は2人排除して実権取り戻し中根登用して改革行なったが、領民負担をかける財政改革だったため、領民百姓一揆起こして失敗したうえ、その一揆起こった同年末には康匡が死去して若年の康完が跡を継いだ。すると失脚していた本多内匠鈴木時敬は康完が若年であるのをよいことに復職果たし、またも専横極めた。しかも藩財政窮乏化している中で奢侈奨励したため、領民はもちろん家臣団内部でも内匠と時敬の排除求める声が高まった幕府にもこの騒動聞こえるようになると、幕府の裁定により本多修理内匠と時敬の対立者で、倹約を主とした藩政改革唱えていた)を家老として藩政改革行なうように命じ2人奸臣はじめとする一派処刑永牢追放処分下された。こうして、騒動はようやく鎮まり、その後修理のもとで藩政改革が行なわれ、文化5年1808年)には藩校遵義堂創設された。 幕末期最後藩主である本多康穣の代に、藩内では尊王攘夷派佐幕派が藩の主導権めぐって争った将軍徳川家茂膳所宿泊予定中止になるほどであったが、藩内部でやがて佐幕派が力を盛り返し阿閉権之丞尊王派11名を処刑した。また尊王派先鋒川瀬太宰幕吏新撰組に捕えられ殺される川瀬太宰筆頭家老戸田資慶叔父でもあった。その後、その川瀬藩主にも説いた尊王論盛り返し明治元年1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して桑名藩攻め出兵した。 翌年版籍奉還により、康穣は知藩事となり、明治4年1871年)の廃藩置県膳所藩廃藩となって膳所県大津県経て滋賀県編入された。 膳所藩1865年4月全国先駆けて廃城願い」を出した膳所城は湖に突き出た水城で、維持費嵩むうえに近代戦不向きなため、一説には天守閣から石垣に至るまでを1200両で売り出されたとも言う。廃城至り、元藩士伊藤久斉はショックのあまり発狂し物乞いになったが、町民尊敬受けていて、1921年亡くなった際には町民による町民が行われた。

※この「本多家の再入部」の解説は、「膳所藩」の解説の一部です。
「本多家の再入部」を含む「膳所藩」の記事については、「膳所藩」の概要を参照ください。

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