本多家の治世
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土岐家転出直後の享保15年(1730年)7月28日、上野沼田藩から本多正矩が4万石で入ることで、ようやく藩主家の定着を見た。 本多氏時代の田中藩では天災などが相次ぎ、さらに歴代藩主の相次ぐ幕閣入りで出費も激しく、藩財政は早くから苦しめられた。このため、第6代藩主本多正寛は藩政改革に着手したが効果は無かった。 明治元年(1868年)9月、第7代藩主本多正訥は、徳川家達が駿府藩70万石の藩主として駿河・遠江・三河などを支配することになったことから、安房長尾藩に移封され、田中藩は廃藩となった。
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