藩主時代とは? わかりやすく解説

藩主時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 14:53 UTC 版)

松平光通」の記事における「藩主時代」の解説

寛永13年1636年5月7日3代藩主松平忠昌次男次男だが嫡男)として誕生幼名万千代丸。乳母長光院。 正保2年1645年10月父の死去により10歳幼少後を継ぐ。このとき父の遺言従い庶兄・仙(のちの松平昌勝)に5万石を分与し松岡藩を、庶弟・辰之助(のちの松平昌親)に25000石を分与し吉江藩それぞれ立藩させた。同年12月31日従四位下侍従に任じられた。後継したとはいえ幼少であり、江戸在府のままであった福井藩は、光通初入国までの間は幕府からの「後見役という名の指導受けた。例を挙げるなら慶安2年1649年10月18日派遣林勝正と佐久間盛郎などである。慶安元年1648年12月21日元服3代将軍徳川家光より偏諱を賜って光通と名乗る左近衛権少将任じられ越前守名乗った越前への初入国は承応2年1653年6月10日となる。幼少のため、しばらくは本多富正始めとする結城秀康以来宿老補佐受けたが、それら宿老老齢のために相次いで死去すると、後継となる家臣団率い親政開始する。光通は政治的に秀で山野海に関する法整備始め家中についてや武道武具について、税制についての様々な法を制定もしくは改正し藩政地盤固めたまた、初代秀康以降これまで尚武気質強かった福井藩であったが、光通自身教養人だったこともあり、光通は朱子学者伊藤坦庵京都より招聘し、儒学中心とした文教奨励して学問・文化方面でも藩を発展させようとした。大安寺新田義貞戦没の地に石碑築き寛文8年1668年平泉寺における楠木正成墓石整備行なうなどして、士気高揚勤王奨励目指した。また越前松平家菩提所として大安禅寺創建している。 一方相次ぐ改革加えて領内をたびたび襲った天災などもあり、藩財政極度に悪化し福井藩絶え金策追われることになる。財政再建のために寛文元年1661年)、幕府許し得て藩札発行する。これは、一般的には日本初藩札と言われており、福井寛文呼ばれた寛文9年1669年4月には領内の勝美大火発生し城下城郭大半天守などが焼失したこのため幕府から5万両を借りて寛文12年1672年)に城郭再建したが、天守再建されなかった。

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藩主時代

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山内容堂」の記事における「藩主時代」の解説

藩主就任当時隠居していた豊資は健在で、藩の保守的な重臣たちは豊信の日常に対して監視怠らず藩政においても豊信は自らが中心となって施策を行うことができない状況だった。したがって藩主就任から数年の間、豊信は思い通りに行動できずに酒に溺れ詩作思いをぶつける日々送った

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藩主時代

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津軽寧親」の記事における「藩主時代」の解説

寛政3年1791年8月28日、信寧の子本家藩主であった津軽信明若死にしたため、その養嗣子として跡を継いだ黒石領は長男の典暁が継いだ)。同年10月1日11代将軍・徳川家斉御目見した。同年12月16日従五位下出羽守叙任した。文化2年1805年5月15日蝦夷地警備功績により、7万石高直しされる文化8年12月18日1812年)、蝦夷地警備功績により、従四位下に昇進10万石に高直しされる文政3年12月16日1821年)、侍従任官する藩政においては信明の改革受け継ぎ幾つかの政策行った。他藩からの移民開拓者求めるために人寄役を設置し寛政8年1796年)には藩校稽古館創設した寛政9年1797年)には藩の法令寛政律』を制定するなど努力したが、信明時代行なわれていた武士による半農農村復興政策失敗終わった寛政4年12月28日1793年2月8日)、西津軽地震発生領内被害出た文化2年1805年)、蝦夷地警備における功績により、幕府許可により高直が行なわれて7万石、後に10万石の大名となった四品叙任され翌年文化6年1809年)には、支藩である黒石藩立藩している。ただし格式上の石高表高)が増えたと言っても新規領地増えたわけではないため、収入そのままに「10万石の大名としての格式相応出費江戸在府時の格式見合う出費参勤交代規模など)を強いられることとなる。さらに相次ぐ改革蝦夷地警備などにおいて出費莫大なものとなり、それを賄うために領民重税強いたため、文化10年1813年)に民次郎一揆起こった文政4年1821年)には家格盛岡藩より上昇したことを妬まれて、盛岡藩関係者による相馬大作事件呼ばれるテロ事件発生している。文政8年1825年4月10日家督次男・信順に譲って隠居し向陽館・広州号した以後俳句を楽しみ、如山・・琴亭という俳号残している。天保4年1833年6月14日江戸で死去した享年69

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藩主時代

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徳川光圀」の記事における「藩主時代」の解説

寛文元年1661年7月、父・頼房が水戸城死去葬儀儒教礼式行い領内久慈郡新しく作られた儒式の墓地瑞竜山葬った当時風習であった家臣殉死禁じ光国は自ら殉死噂され家臣宅を廻り、「殉死は頼房公に忠義だが私には不忠ではないか」と問いかけ殉死をやめさせたといわれている。幕府殉死禁止令を出したのはその2後であるので、『義公行実』では殉死禁止の初例としている。ただし、同じ頃、紀州藩彦根藩会津藩でも殉死禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかわからない8月19日幕府の上使を受け水戸藩28万石第2代藩主となる。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重弟たちに「兄の長男松千代(綱方)を養子欲しい。これが叶えられなければ自分家督相続断り遁世するつもりである」と言ったという。兄弟光国説得したが、光国意志固く今度弟たち頼重説得し頼重やむなく松千代養子に出すことを承諾した、とされている。しかし実際には、綱方が光国養子となったのは、寛文3年1663年12月である。翌寛文4年1664年2月光国実子・頼常が頼重養子となる。さらに寛文5年には頼重次男采女(綱條)が水戸家移り、綱方死後の寛文11年1671年)に光国養子となったまた、弟・頼元那珂郡2万石額田藩)を、頼隆に久慈郡2万石保内藩)を分与する藩主就任直後寛文2年1662年)、町奉行望月恒隆水道設置命じた。頼房時代造営され水戸下町は元々は湿地帯であったため井戸水濁り住民飲料水に不自由であった望月笠原不動谷の湧水水源定め笠原から細谷まで全長10km埋設したでつなぐ笠原水道着工実際敷設永田勘衛門とその息子担当した。約1年半完成した笠原水道改修重ね明治時代近代的な水道整備されるまで利用された。 寛文3年1663年)、領内寺社改革乗り出し単位に「開基帳」の作成命じた寛文5年1665年)、寺社奉行2人任じ翌年寺社破却移転などを断行した開基帳には2,377寺が記されているが、この年処分されたのは1,098寺で、46%に及ぶ。うち破却713寺。主な理由不行跡であった神社については、社僧別院住まわせるなど神仏分離徹底させた。また、藩士墓地として、特定の寺院宗派属さない共有墓地を、水戸上町下町それぞれに設けた現在の常磐共有墓地酒門共有墓地)。一方で由緒正し寺院長勝寺 (潮来市)願入寺大洗町)などについては支援保護した神社については、静神社那珂市)、吉田神社(水戸市)などの修造助けとともに神主を京に派遣して神道を学ばせている。 寛文5年1665年)、明の遺臣朱舜水を招く。朱舜水学風は、実理重んじる実学であった朱舜水招いた主な目的は、学校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から実現しなかった。しかし、その儒学実学結びつける学風は、水戸藩学風特徴となって残った朱舜水は、17年後の天和2年1682年死去し瑞龍山葬られた。 延宝元年1673年)、5回目就藩からの江戸帰府際し通常の経路でなく、上総から船で鎌倉渡り江戸へという経路たどった鎌倉では英勝寺拠点として名所名跡訪ね、この旅の記録を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏めた貞享2年1685年)、『鎌倉日記』をもとに河井恒久らにより、地誌新編鎌倉志』が編纂された。創作『水戸黄門』では日本全国諸国漫遊しているが、藩主江戸になければならず、領地視察移動中に寄り道することはあったが、光圀遠出といって鎌倉にある養祖母英勝院菩提寺英勝寺)に数度足を運んだ程度である。 延宝7年1679年)頃、諱を光圀改める(光圀52歳)。 貞享から元禄初めにかけて、建造した巨船快風丸」を使い三度にわたる蝦夷地探検命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元禄元年1688年出航3度目松前から北上して石狩まで到達した米・麹・酒などと引き換えに、塩鮭一万本、熊やラッコトドの皮などを積んで帰還した。この航海により、水戸藩幕末に至るまで蝦夷地強い関心持った。しかし、この巨船での航海は、光圀藩主であったから幕府黙認し実現したようで、これ以降行われず光圀の死から3年目快風丸解体された。

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藩主時代

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松平輝綱」の記事における「藩主時代」の解説

寛文2年1662年3月に父が死去したため、4月18日川越藩75000石の藩主となった。このとき弟の信定・信興に新墾田5000石ずつ、堅綱に新墾田1000石を分与した。 輝綱は病弱だったとされ、そのためか[独自研究?]父の没後幕政にはほとんど関わらず戦術砲術騎馬戦法などの兵法測量術など軍学興味持った。他にヨーロッパ式経緯度入り地図を自ら作成したり、薬学研究をしたりするなど学問傾倒した。輝綱は奢りがましいことを嫌って家中でも質素奨励し、自らの衣服木綿や麻を用いたという。 寛文11年1671年12月12日死去享年52。跡を四男の信輝継いだ

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藩主時代

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立花鑑寿」の記事における「藩主時代」の解説

寛政9年1797年)閏7月22日、父の隠居により藩主となると家老小野勘解由信任し小野実権を握る。 これより先、家老姉婿でもある立花寿賰内膳)と戸次通栄(織衛)(後に立花氏下賜)らが豪傑組を組織して藩政改革行ったが、その厳罰主義党派的画策に対して藩内で不満が表面化した。これを受けて小野家老立花内膳戸次通栄(織衛)を解職し、さらに寺社奉行2名に蟄居物頭戸次半ら11名に逼塞命じている(豪傑崩れ)。しかしあまりにやりすぎたため、家中反対意見強く同年末には早々立花寿賰多く復職した寛政11年1799年9月亡兄・鑑一の遺児である鑑賢を養嗣子として迎えたその後藩札発行するなどしている。また、文化元年1804年)には戸次通栄に立花姓を許可する文政3年4月29日1820年6月9日)、江戸にて死去した享年52。跡を養嗣子の鑑賢が継いだ

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島津重年」の記事における「藩主時代」の解説

寛延2年1749年7月10日、兄の宗信死去したため、幕府許可もらって本家復帰し、その跡を継いで藩主になった加治木家は長男島津久方(のちの島津重豪)が継いだ同年11月従四位下、侍従叙任され薩摩守称したまた、9代将軍・徳川家重より偏諱授かり、久門から重年改名している。 寛延3年1750年)に藩政批判人物批判をしていた実学に対して実学崩れ」という薩摩藩最初学派弾圧事件がおこり、用人皆吉安ら遠島10人を出す。 宝暦3年1753年)に幕命により、木曾三川治水工事宝暦治水)を命じられ家老平田靱負を総責任者とし多数藩士工事従事したが、莫大な費用殉職者80数名出した平田完成見届け宝暦5年1755年)に責め負い切腹翌月重年病弱の上心労重なり27歳で兄と同様に父に先立ち没したこの前宝暦4年1754年8月長男久方が(島津宗家としての)父の跡を継ぐため本家入り忠洪と改名し重年死後10歳藩主就任したが、元服時に同じく将軍家重より偏諱授かって重豪と改名した

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島津斉彬」の記事における「藩主時代」の解説

藩主就任するや、藩の富国強兵努め洋式造船反射炉溶鉱炉建設地雷水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業興した嘉永4年7月新暦:1851年8月頃)には、土佐藩漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎保護し藩士造船法などを学ばせたほか、安政元年1854年)、洋式帆船いろは丸」を完成させ、帆船帆布自製するために木綿紡績事業興した西洋式軍艦昇平丸」を建造し幕府献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った黒船来航以前から蒸気機関国産化試み日本最初国産蒸気船雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身西郷隆盛大久保利通登用して朝廷での政局関わる。 斉彬は松平慶永伊達宗城山内豊信土佐藩主)、徳川斉昭水戸藩隠居)、徳川慶恕尾張藩主)らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み老中阿部正弘幕政改革安政幕政改革)を訴えた。特に斉彬は黒船来航以来難局打開するには公武合体武備開国をおいてほかにないと主張した阿部内諾を受け、薩摩藩支配下にある琉球王国介したフランスとの交易画策し市来四郎派遣したが、後の斉彬の急死頓挫している。 阿部死後安政5年1858年)に大老就いた彦根藩主井伊直弼将軍継嗣問題真っ向から対立した将軍徳川家定病弱嗣子がなかったため、慶永、宗城ほか四賢侯、斉昭らと共に次期将軍として斉昭の子徳川慶喜推した。斉彬は、篤姫家定正室として嫁がせ、さらに公家通じて慶喜擁立せよとの内勅降下朝廷請願した一方井伊直弼紀州藩主徳川慶福推した直弼大老地位利用して強権発動し反対派弾圧する安政の大獄開始する結果慶福14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは敗れた

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