藩主時代
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寛永13年(1636年)5月7日、3代藩主・松平忠昌の次男(次男だが嫡男)として誕生。幼名は万千代丸。乳母は長光院。 正保2年(1645年)10月、父の死去により10歳の幼少で後を継ぐ。このとき父の遺言に従い、庶兄・仙菊(のちの松平昌勝)に5万石を分与して松岡藩を、庶弟・辰之助(のちの松平昌親)に2万5000石を分与して吉江藩をそれぞれ立藩させた。同年12月31日、従四位下侍従に任じられた。後継したとはいえ幼少であり、江戸在府のままであった。福井藩は、光通初入国までの間は幕府からの「後見役」という名の指導を受けた。例を挙げるなら慶安2年(1649年)10月18日派遣の林勝正と佐久間盛郎などである。慶安元年(1648年)12月21日に元服、3代将軍・徳川家光より偏諱を賜って光通と名乗る。左近衛権少将に任じられ、越前守を名乗った。 越前への初入国は承応2年(1653年)6月10日となる。幼少のため、しばらくは本多富正を始めとする結城秀康以来の宿老の補佐を受けたが、それら宿老が老齢のために相次いで死去すると、後継となる家臣団を率い、親政を開始する。光通は政治的に優秀で、山野海川に関する法整備を始め、家中についてや武道・武具について、税制についての様々な法を制定、もしくは改正して藩政の地盤を固めた。また、藩初代秀康以降、これまで尚武の気質の強かった福井藩であったが、光通自身が教養人だったこともあり、光通は朱子学者の伊藤坦庵を京都より招聘し、儒学を中心とした文教を奨励して学問・文化方面でも藩を発展させようとした。大安寺や新田義貞戦没の地に石碑を築き、寛文8年(1668年)平泉寺における楠木正成墓石の整備を行なうなどして、士気の高揚と勤王の奨励を目指した。また越前松平家の菩提所として大安禅寺を創建している。 一方、相次ぐ改革に加えて、領内をたびたび襲った天災などもあり、藩財政は極度に悪化し、福井藩は絶えず金策に追われることになる。財政再建のために寛文元年(1661年)、幕府の許しを得て藩札を発行する。これは、一般的には「日本初の藩札」と言われており、福井寛文札と呼ばれた。寛文9年(1669年)4月には領内の勝美村で大火が発生し、城下と城郭の大半、天守などが焼失した。このため、幕府から5万両を借りて寛文12年(1672年)に城郭を再建したが、天守は再建されなかった。
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藩主時代
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藩主就任当時、隠居していた豊資は健在で、藩の保守的な重臣たちは豊信の日常に対して監視を怠らず、藩政においても豊信は自らが中心となって施策を行うことができない状況だった。したがって、藩主就任から数年の間、豊信は思い通りに行動できずに酒に溺れ、詩作に思いをぶつける日々を送った。
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藩主時代
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寛政3年(1791年)8月28日、信寧の子で本家の藩主であった津軽信明が若死にしたため、その養嗣子として跡を継いだ(黒石領は長男の典暁が継いだ)。同年10月1日、11代将軍・徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下・出羽守に叙任した。文化2年(1805年)5月15日、蝦夷地警備の功績により、7万石に高直しされる。文化8年12月18日(1812年)、蝦夷地警備の功績により、従四位下に昇進、10万石に高直しされる。文政3年12月16日(1821年)、侍従に任官する。 藩政においては信明の改革を受け継ぎ、幾つかの政策を行った。他藩からの移民開拓者を求めるために人寄役を設置し、寛政8年(1796年)には藩校・稽古館を創設した。寛政9年(1797年)には藩の法令『寛政律』を制定するなど努力したが、信明時代に行なわれていた武士による半農農村復興政策は失敗に終わった。寛政4年12月28日(1793年2月8日)、西津軽地震発生、領内に被害が出た。 文化2年(1805年)、蝦夷地の警備における功績により、幕府の許可により高直しが行なわれて7万石、後に10万石の大名となった。四品に叙任された翌年の文化6年(1809年)には、支藩である黒石藩を立藩している。ただし格式上の石高(表高)が増えたと言っても新規の領地が増えたわけではないため、収入はそのままに「10万石の大名」としての格式相応の出費(江戸在府時の格式に見合う出費、参勤交代の規模など)を強いられることとなる。さらに相次ぐ改革と蝦夷地警備などにおいて出費が莫大なものとなり、それを賄うために領民に重税を強いたため、文化10年(1813年)に民次郎一揆が起こった。 文政4年(1821年)には家格が盛岡藩より上昇したことを妬まれて、盛岡藩関係者による相馬大作事件と呼ばれるテロ事件が発生している。文政8年(1825年)4月10日に家督を次男・信順に譲って隠居し、向陽館・広州と号した。 以後は俳句を楽しみ、如山・栖鶴・琴亭という俳号を残している。天保4年(1833年)6月14日、江戸で死去した。享年69。
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藩主時代
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寛文元年(1661年)7月、父・頼房が水戸城で死去。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬った。当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、光国は自ら殉死の噂された家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死をやめさせたといわれている。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後であるので、『義公行実』では殉死の禁止の初例としている。ただし、同じ頃、紀州藩、彦根藩、会津藩でも殉死を禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかはわからない。 8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となる。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と言ったという。兄弟は光国を説得したが、光国の意志は固く、今度は弟たちが頼重を説得し、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされている。しかし実際には、綱方が光国の養子となったのは、寛文3年(1663年)12月である。翌寛文4年(1664年)2月、光国の実子・頼常が頼重の養子となる。さらに寛文5年には頼重の次男・采女(綱條)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光国の養子となった。また、弟・頼元に那珂郡2万石(額田藩)を、頼隆に久慈郡2万石(保内藩)を分与する。 藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じた。頼房時代に造営された水戸下町は元々は湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由であった。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道を着工。実際の敷設は永田勘衛門とその息子が担当した。約1年半で完成した。笠原水道は改修を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用された。 寛文3年(1663年)、領内の寺社改革に乗り出し、村単位に「開基帳」の作成を命じた。寛文5年(1665年)、寺社奉行2人を任じ、翌年寺社の破却・移転などを断行した。開基帳には2,377寺が記されているが、この年処分されたのは1,098寺で、46%に及ぶ。うち破却は713寺。主な理由は不行跡であった。神社については、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させた。また、藩士の墓地として、特定の寺院宗派に属さない共有墓地を、水戸上町・下町それぞれに設けた(現在の常磐共有墓地 と酒門共有墓地)。一方で、由緒正しい寺院、長勝寺 (潮来市)や願入寺(大洗町)などについては支援・保護した。神社については、静神社(那珂市)、吉田神社(水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせている。 寛文5年(1665年)、明の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から実現しなかった。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残った。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞龍山に葬られた。 延宝元年(1673年)、5回目の就藩からの江戸帰府に際し、通常の経路でなく、上総から船で鎌倉に渡り江戸へという経路をたどった。鎌倉では英勝寺を拠点として名所・名跡を訪ね、この旅の記録を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏めた。貞享2年(1685年)、『鎌倉日記』をもとに河井恒久らにより、地誌『新編鎌倉志』が編纂された。創作の『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊しているが、藩主は江戸になければならず、領地を視察や移動中に寄り道することはあったが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度足を運んだ程度である。 延宝7年(1679年)頃、諱を光圀に改める(光圀52歳)。 貞享から元禄の初めにかけて、建造した巨船「快風丸」を使い、三度にわたる蝦夷地探検を命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元禄元年(1688年)出航の3度目は松前から北上して石狩まで到達した。米・麹・酒などと引き換えに、塩鮭一万本、熊やラッコ、トドの皮などを積んで帰還した。この航海により、水戸藩は幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持った。しかし、この巨船での航海は、光圀が藩主であったから幕府も黙認して実現したようで、これ以降行われず、光圀の死から3年目に快風丸も解体された。
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藩主時代
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寛文2年(1662年)3月に父が死去したため、4月18日に川越藩7万5000石の藩主となった。このとき弟の信定・信興に新墾田5000石ずつ、堅綱に新墾田1000石を分与した。 輝綱は病弱だったとされ、そのためか[独自研究?]父の没後は幕政にはほとんど関わらず、戦術・砲術・騎馬戦法などの兵法や測量術など軍学に興味を持った。他にヨーロッパ式の経緯度入りの地図を自ら作成したり、薬学の研究をしたりするなど学問に傾倒した。輝綱は奢りがましいことを嫌って、家中でも質素を奨励し、自らの衣服も木綿や麻を用いたという。 寛文11年(1671年)12月12日に死去、享年52。跡を四男の信輝が継いだ。
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藩主時代
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寛政9年(1797年)閏7月22日、父の隠居により藩主となると家老小野勘解由を信任し、小野が実権を握る。 これより先、家老で姉婿でもある立花寿賰(内膳)と戸次通栄(織衛)(後に立花氏を下賜)らが豪傑組を組織して藩政改革を行ったが、その厳罰主義と党派的画策に対して藩内で不満が表面化した。これを受けて小野は家老の立花内膳と戸次通栄(織衛)を解職し、さらに寺社奉行2名に蟄居、物頭戸次半ら11名に逼塞を命じている(豪傑崩れ)。しかしあまりにやりすぎたため、家中で反対意見も強く、同年末には早々と立花寿賰ら多くが復職した。 寛政11年(1799年)9月、亡兄・鑑一の遺児である鑑賢を養嗣子として迎えた。その後は藩札を発行するなどしている。また、文化元年(1804年)には戸次通栄に立花姓を許可する。 文政3年4月29日(1820年6月9日)、江戸にて死去した。享年52。跡を養嗣子の鑑賢が継いだ。
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藩主時代
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寛延2年(1749年)7月10日、兄の宗信が死去したため、幕府の許可をもらって本家に復帰し、その跡を継いで藩主になった。加治木家は長男の島津久方(のちの島津重豪)が継いだ。同年11月、従四位下、侍従に叙任され、薩摩守を称した。また、9代将軍・徳川家重より偏諱を授かり、久門から重年に改名している。 寛延3年(1750年)に藩政批判や人物批判をしていた実学派に対して「実学崩れ」という薩摩藩最初の学派弾圧事件がおこり、用人の皆吉続安ら遠島者10人を出す。 宝暦3年(1753年)に幕命により、木曾三川の治水工事(宝暦治水)を命じられ、家老の平田靱負を総責任者とし多数の藩士が工事に従事したが、莫大な費用と殉職者80数名を出した。平田も完成を見届け、宝暦5年(1755年)に責めを負い切腹、翌月に重年も病弱の上に心労が重なり、27歳で兄と同様に父に先立ち没した。 この前の宝暦4年(1754年)8月に長男・久方が(島津宗家としての)父の跡を継ぐため本家に入り忠洪と改名し、重年の死後10歳で藩主に就任したが、元服時に同じく将軍家重より偏諱を授かって重豪と改名した。
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藩主時代
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藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。嘉永4年7月(新暦:1851年8月頃)には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854年)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。 斉彬は松平慶永、伊達宗城、山内豊信(土佐藩主)、徳川斉昭(水戸藩隠居)、徳川慶恕(尾張藩主)らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。特に斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。阿部の内諾を受け、薩摩藩の支配下にある琉球王国を介したフランスとの交易を画策し、市来四郎を派遣したが、後の斉彬の急死で頓挫している。 阿部の死後、安政5年(1858年)に大老に就いた彦根藩主・井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、慶永、宗城ほか四賢侯、斉昭らと共に次期将軍として斉昭の子の徳川慶喜を推した。斉彬は、篤姫を家定の正室として嫁がせ、さらに公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を朝廷に請願した。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、慶福が14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは敗れた。
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