藩主継承の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 21:41 UTC 版)
「牧野忠成 (越後長岡藩二代)」の記事における「藩主継承の経緯」の解説
初代藩主・忠成の本来の嫡子である大和守光成が相続前に24歳で早世したため、3歳であった光成の遺児老之助(忠成)を差し置いて、光成の弟たち(すなわち叔父)が相続権を主張したことによる。→長岡における動静は長岡藩・お家騒動の項を参照。 結局、長岡藩自身で解決出来ずに幕府に訴訟が持ち込まれ明暦元年(1655年)将軍の裁定を仰ぐことになった。時の将軍は、4代家綱であり、その御前にて老之助の名代牧野正直と叔父達(牧野康成・牧野定成)の対決が証拠の品の披露と共に行われた。裁決は家綱の「よいや、よいや」の二声で堂上・堂下の一同も静まり老之助に一決してしまったという。ただ、一説によると「左様そうせぇ」と云うのが口癖であったと言われているので、親裁は形式的なもので、老中等、幕閣の意向により演出されたとの見方もある。 これに関連した伝承が長岡藩関係文書に見える。すなわち、光成の未亡人で老之助の生母である長寿院(本多俊次の娘)が家臣根岸弥次右衛門の伯母玉木を通じて老中・松平信綱(伊豆守)にわが子の相続の正当性を内密に訴えたというものである。この根岸弥次右衛門は松平信綱の旧領武蔵国忍領の郷士出身であるうえに、伯母玉木は長寿院の実家の近江膳所藩主・本多俊次の家臣宇津直右衛門の伯母でもあった。この幕閣人脈への働きかけが功を奏したものか、将軍家綱の鶴の一声で老之助の相続が実現した。一方、老之助の叔父たちは、この裁決の数年後に41 - 42歳で相次いで死去している。
※この「藩主継承の経緯」の解説は、「牧野忠成 (越後長岡藩二代)」の解説の一部です。
「藩主継承の経緯」を含む「牧野忠成 (越後長岡藩二代)」の記事については、「牧野忠成 (越後長岡藩二代)」の概要を参照ください。
- 藩主継承の経緯のページへのリンク