藩内の派閥抗争とは? わかりやすく解説

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藩内の派閥抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/18 13:23 UTC 版)

遠山重寛」の記事における「藩内の派閥抗争」の解説

江戸時代後期水戸藩には、第9代藩主徳川斉昭に近い改革派と、反改革派の対立があり、藩政改革一環として斉昭が設立した藩校弘道館も両派の確執無縁ではなかった。 弘化元年1844年5月6日、斉昭が幕府から隠居・謹慎命じられ致仕すると、弘道館においては、翌弘化2年1845年3月3日、斉昭に近い教授頭取会沢正志斎隠居命じられた。次いで教授頭取となった青山延光は、登館を拒否することで、反改革派による弘道館支配抵抗する構え見せた。 しかし、反改革派が実権握った藩庁では、同年6月青山罷免同年7月16日、重寛が側用人挙げられ弘道館掛(学校掛)に任じられた。重寛の下で、新たな教授頭取として高根信敏が抜擢され、重寛が高根らを指図して学館運営衝に当たることで、反改革派が弘道館掌握することが企図された人事であり、重寛の登用反改革派の結城朝道(寅寿)によるものであった弘道館掛に着任した重寛は、厳密に弘道館諸生出欠簿を調べた上、“学生政事向き容喙するものではない”、“学業怠って政事議論するどもってのほか”などとして監督厳しくした。さらに、重寛が属す反改革派への諸生取り込み強行したが、このことで弘道館内に混乱来たし文武活動停滞したと言われる。しかし反対に天保盛時には及ばないものの、重寛の弘道館就任によって挽回したとの評価もある。 同年10月23日遠山は、藩庁より弘道館としての功労対し賞賜与えられ、翌24日には、遠山の子・熊之介ら3名が弘道館の舎長に充てられた。 一方で徳川斉昭は、反改革派の粛清企て同年10月23日老中阿部正弘対し、藩内内紛の罪状をもって国家老鈴木重矩以下、結城寅寿や重寛などを含めた十数名の処罰上申した。これによると、重寛については蟄居3年希望されている。 だが嘉永年間至っても、依然として重寛が弘道館教授らを監督する体制続き反改革派による弘道館支配続いた。もっとも、石河幹脩の日記石河明善日記嘉永5年1852年10月22日の条によればその頃には重寛は改革派転向していたとされる同年、重寛は弘道館掛を辞職同年9月には高根信敏も教授頭取免職となり、同人に代わって、青山延光教授頭取再任された。翌嘉永6年1853年4月21日には、前藩主の斉昭が側用人である重寛に書を与えて会沢正志斎及び豊田天功優遇すべきことを諭したとの記録が残るが、同年11月には会沢正志斎再任されるなどし、弘道館人事改革派へと復した安政4年1857年)に至って致仕した。

※この「藩内の派閥抗争」の解説は、「遠山重寛」の解説の一部です。
「藩内の派閥抗争」を含む「遠山重寛」の記事については、「遠山重寛」の概要を参照ください。

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