藩医として
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天保8年(1837年)1月、天保の飢饉が田原地方にも及び、春山は渡辺崋山の指示を受けて藩医中村玄喜とともに藩内村の病人治療を命ぜられて江戸から帰国した。このとき4か月にわたり救済診療に力を尽くし、結果として藩領内からは一人の死者も出さなかったため、功績を称えられ藩主から褒賞を受けている。同年11月、父愚伯が隠居し、春山は37歳で家督を継ぐ。春山の診療範囲は広く、吉田藩領・岡崎藩領など他の領地まで及んだという。天保9年(1838年)、春山は江戸での医学修行を許されたが、父愚伯の病気のため見合わせていたところ、同年11月14日に愚伯は67歳で死去した。
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藩医として
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万延元年12月26日(1861年2月5日)、積年医業の心掛け宜しく、手広く治療をしていた名声によって三人扶持を下し置かれ、格式御用人格にて召し出され藩医(軽格医師)となる。 文久元年12月8日(1862年1月7日)、土佐の町郷浦にて種痘御用を仰せ付けられる。 文久2年2月10日(1862年3月10日)、山内豊範参勤の際、療治御用を以って江戸表へ出立し、同3月1日(太陽暦3月30日)より、御船便次第、浦戸通乗船を仰せ付けられた。 同年3月28日(太陽暦4月26日)、自力(徒歩)により北山通へ参上するよう申し付けられるが、以前からの持病の症状があり、北山越えは困難であるとされ、御先達「御駄荷物御用船」へ乗り加えることの願いが許可される。 同年4月22日(太陽暦5月20日)、大坂表で麻疹の流行により、山内豊範の発駕が延期となり、4月28日(太陽暦5月26日)となる。 文久3年1月10日(1863年2月27日)、山内容堂に随行し、乾退助らと筑前藩の蒸気船大鵬丸に乗って江戸の品川を出航し、途中悪天候に遭う。この時、静安は和歌を詠んで容堂へ奉り、容堂の気持ちを慰めた。船は伊豆の下田に漂着し、一行は上陸して宝福寺に滞在した。(この時、山内容堂と勝海舟の間で、坂本龍馬の脱藩を赦す話合いが成された) 同年1月25日(太陽暦3月14日)、山内容堂に随行し上洛。 同年4月12日(太陽暦5月29日)、山内容堂に随行し土佐に帰藩した。 同年11月11日(太陽暦12月21日)、種痘御用を御免仰せ付けられる。 文久4年1月22日(1864年2月29日)、爾来の名前「静安」を藩主の許可を得て「復斎」と改める。 慶応2年2月10日(1866年3月26日)、開成館医局の教授下役を仰せ付けられる。 同年7月22日(太陽暦8月31日)、爾来の役目を御免仰せ付けられる。 慶応3年3月21日(1867年4月25日)、「持病が思わしく無いため、長崎表で養生を致したい」旨を届出、翌年3月(太陽暦3月下旬~4月上旬)迄の休暇を願い出て許可されるが、実際には嫡男の萩原三圭の長崎・ドイツ留学を支援する目的での休暇願いであったと推測されている。 明治元年10月3日(1868年11月16日)、長崎表より土佐に帰藩。
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