藩内での対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:20 UTC 版)
3月26日、家老の石塚と岡本は角館の佐竹義邦(図書)の久保田への出府を願い出て、佐竹義智(東山城)宅で会おうとした。これは5月に予定される藩主佐竹義明の国入りで、銀札執行派の勢力拡大を恐れたからと推測できる。佐竹義智や佐竹義邦は藩主佐竹義明の叔父であった。 4月6日以降、平本茂助も加えて会合が開かれた。彼らは私的な内談の結果を会所に持ち込み合法化して布告する「密室政治」を行った。これに対し、政治は会所で決まるものと考えていた梅津外記や、国元家老の山方助六郎、山方に軍学を指南していた野尻忠三郎が不満を溜めていた。14日藩主佐竹義明の正月以来の密室政治に疑惑を感じているという手紙が届く。佐竹図書らは手紙を改ざんし、梅津外記はそれ反発したため、両者は16日会所で正面衝突してしまう。この日騒ぎは収まったものの、17日に佐竹図書らは梅津外記を出勤差止にする。さらに、18日京都から川又が帰って来たが、直ぐに佐竹図書らに「遠慮」を申し渡されてしまう。山方助六郎は病気を理由に引きこもっていた。 5月18日久保田への帰国を目前にした藩主佐竹義明は、突如佐竹義邦(図書)、佐竹義智(東山城)、石塚孫太郎、岡本又太郎に「御差あり(中略)差控」を申し渡す。平本茂助は佐竹義智宅に引きこもって難を逃れた。御城御門は多数の足軽で物々しく固められ、ついに19日藩主佐竹義明は久保田へ到着した。藩主は佐竹図書らを「逆意之萌明白」として断罪しようとした。こうして旧銀札派は勢力を盛り返したように見えた。だが銀札の失敗はそれでは取り返しがつかない程になっていた。 22日太田蔵之介が藩主佐竹義明に直訴しようとして、大越甚右衛門らにはばまれた。24日 武頭共の総意を代表して羽石小七郎が「不安堵千万」と言う書を家老に提出した。大館の佐竹義村(大和)も天徳寺など各寺院の住職も登城したが、皆銀札の失敗を証言した。 26日側近に奸ありと、いきなり藩主は旧銀札派の側近や家老を一掃した。江戸で5代藩主佐竹義峯の側近として権威を振るい愛宕下御前(義峯の子女)奥家老を勤める那珂忠左衛門も野尻忠三郎の宅から「甚だ怪しき書き付け」が発見され、糺明を受けることとなった。東山城や佐竹義邦は「山方・野尻・那珂らが謀計を相企候」まちがいなしということで、野尻親子は草生津で断罪された。その他も切腹や永蟄居など、総勢40人が処分された。 6月末日銀札への最終処理を久保田藩はまとめあげた。それによると、7月8日で銀札の発行を禁止し、一匁の銀札を一文の金額で10年かけて兌換するというものであった。人々は不満を持ったが、これに従うしか無かった。 七日市村の豪農長崎七左衛門の『大事代記』によれば「札元ハ多ク潰ニ及申候、惣棟梁川又善左衛門様ハ切腹被仰付候」とある。 宝暦の銀札の失敗の後、約80年後の1840年(天保11年)に再び藩札が発行された。これは、銅山、銀山およびその付近だけで通用したとされるが、広く領内にも通用していた。銀札との記録もあるが実際には金札や銭札が発行され、この時は騒動無く兌換も適切に行われた。現在は稀少である。その後、幕末にも2度ほど秋田藩は藩札を発行している。
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