藩主相続まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:51 UTC 版)
寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改める。この年、伊藤友玄、小野言員、内藤高康の3人が傅役となる。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受ける。義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になるも、有能な人物として知られている。だが、少年の頃の光国の言動はいわゆる不良であった。兄(頼重)を差し置いての世子決定が光国の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いを行っており、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもした。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。光国16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。光国18歳のとき、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる。 承応元年(1652年)、侍女の弥智(玉井親次の娘)との間に男子(頼常)が生まれるが、母の弥智は誕生前に家臣・伊藤友玄に預けられて出産し、生まれた子は翌年に高松に送られて兄・頼重の高松城内で育てられた。光国に対面したのは13歳の時であったが、このとき光国は親しみの様子を見せなかったという。承応3年(1654年)、前関白・近衛信尋の娘・尋子(泰姫)と結婚する。 明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。 万治元年(1658年)閏12月23日、妻・泰姫が21歳で死去。以後は御簾中を娶らなかった。
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