藩主死亡を幕府に届けるのを遅らせた例
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「末期養子」の記事における「藩主死亡を幕府に届けるのを遅らせた例」の解説
熊本藩(細川家)の例延享4年(1747年)8月15日、藩主細川宗孝は江戸城内にて、旗本板倉勝該に突然斬りつけられ殺害された。人違いで被害を被ったのであるが、宗孝に実子はなく、養子も立てておらず、さらに殿中での刃傷であり喧嘩両成敗で板倉ともども改易・絶家となりかねなかった。たまたま居合わせた仙台藩主伊達宗村が機転をきかせ、状況を知りつつも宗孝を屋敷で手当するよう細川家臣に助言し、家臣たちは存命を装って宗孝の遺体を藩邸に運び込んだ。そして、宗孝の弟の細川重賢を急ぎ末期養子として届け出た後、翌日に宗孝が手当の甲斐なく死去したと報告した。 仙台藩(伊達家)の例寛政8年(1796年)7月27日に藩主伊達斉村が後継者を決めないまま急死した時、長男の周宗は乳児、次男の斉宗が生まれたのは翌月だったため、幕府はおろか藩内にも機密扱いとした上で、同年8月1日に斉村の病気回復が遅れている旨が幕府に報告され、藩内には同年8月12日に死去したと公表の上で3日後、幕府に斉村の病気による周宗の末期養子としての相続願いが出され、10月29日に周宗が家督を相続した。 土浦藩(土屋家)の例文化7年(1810年)10月15日、藩主土屋寛直は16歳で死去した。藩は寛直の存命を装った上で進退伺いを幕府に提出し、病弱で継嗣もなく領地奉還をしたいとまで申し出つつ、養子相続の希望も出した。祖先の勲功を理由に養子が認められ、水戸徳川家から彦直が婿養子(養女になった妹の婿)に入り、寛直は翌文化8年(1811年)10月2日に17歳で死去したと発表の後、彦直が家督を相続した。 佐土原藩(島津家)の例天保10年(1839年)4月7日、藩主島津忠徹が参勤交代で江戸へ向かう途中、東海道草津宿本陣(現在の滋賀県草津市)にて急死した。幕府への継嗣の届け出はなされておらず、家臣らは本陣の協力を得て忠徹の死を秘し奔走し、5月25日に三男忠寛への跡目相続の許可が下り、翌26日に忠徹の死が公表された。 土佐藩(山内家)の例嘉永元年(1848年)9月18日、藩主山内豊惇が、先代藩主豊熈の死により家督を相続して2週間足らずで急死した。藩は幕閣に根回しして、豊惇は表向きには病気のため隠居したことにし、翌年2月に死が公表された。その間に、分家の豊信(容堂)が家督を相続した。 笠間藩(牧野家)の例嘉永3年(1850年)3月29日、藩主牧野貞久は16歳で死去した。藩は末期養子が可能な年齢の下限(17歳)まで貞久の存命を装って、翌嘉永4年(1851年)2月10日に死去したと発表し、一族の貞直が養子となり家督を相続した。 彦根藩(井伊家)の例安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変で大老の藩主井伊直弼が殺害されたが、混乱を恐れた幕府によって表向きには負傷によりしばらく休養とされた。そのため墓所に記された没日も実際の3月3日とは異なり、表向きは3月28日を命日としている。直弼は3月晦日に大老職を正式に免じられ、閏3月晦日に死が公表された。その間、3月10日に彦根藩は幕府に直弼の次男の直憲を嫡子とする旨を届け、4月28日に至って家督相続を許された。
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