藩主死亡を幕府に届けるのを遅らせた例とは? わかりやすく解説

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藩主死亡を幕府に届けるのを遅らせた例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:23 UTC 版)

末期養子」の記事における「藩主死亡を幕府に届けるのを遅らせた例」の解説

熊本藩細川家)の例延享4年1747年8月15日藩主細川宗孝江戸城内にて、旗本板倉勝該に突然斬りつけられ殺害された。人違い被害被ったのであるが、宗孝に実子はなく、養子立てておらず、さらに殿中での刃傷であり喧嘩両成敗板倉ともども改易絶家なりかねなかった。たまたま居合わせた仙台藩主伊達宗村機転をきかせ、状況知りつつも宗孝を屋敷手当するよう細川家臣に助言し家臣たちは存命装って宗孝の遺体藩邸運び込んだ。そして、宗孝の弟の細川重賢急ぎ末期養子として届け出た後、翌日に宗孝が手当甲斐なく死去した報告した仙台藩伊達家)の例寛政8年1796年7月27日藩主伊達斉村後継者決めないまま急死した時、長男周宗乳児次男の斉宗が生まれたのは翌月だったため、幕府はおろか藩内にも機密扱いとした上で同年8月1日に斉病気回復遅れている旨が幕府報告され、藩内には同年8月12日死去した公表の上3日後、幕府に斉病気による周宗末期養子としての相続願い出され10月29日周宗家督相続した土浦藩土屋家)の例文7年1810年10月15日藩主土屋寛直16歳死去した。藩は寛直の存命装った上で進退伺い幕府提出し病弱継嗣もなく領地奉還をしたいとまで申し出つつ、養子相続希望出した祖先勲功理由養子認められ水戸徳川家から彦直が婿養子養女になった妹の婿)に入り、寛直は翌文化8年1811年10月2日17歳死去した発表の後、彦直が家督相続した佐土原藩島津家)の例天保10年1839年4月7日藩主島津忠徹参勤交代江戸へ向かう途中東海道草津宿本陣現在の滋賀県草津市)にて急死した幕府への継嗣届け出はなされておらず、家臣らは本陣協力得て忠徹の死を秘し奔走し5月25日三男忠寛への跡目相続許可下り、翌26日に忠徹の死が公表された。 土佐藩山内家)の例嘉永元年1848年9月18日藩主山内豊惇が、先代藩主豊熈の死により家督相続し2週間足らず急死した。藩は幕閣根回しして、豊惇は表向きには病気のため隠居したことにし、翌年2月に死が公表された。その間に、分家の豊信(容堂)が家督相続した笠間藩牧野家)の例嘉永3年1850年3月29日藩主牧野貞久16歳死去した。藩は末期養子可能な年齢下限17歳)まで貞久存命装って、翌嘉永4年1851年2月10日死去した発表し一族の貞直が養子となり家督相続した彦根藩井伊家)の例安政7年1860年3月3日桜田門外の変大老藩主井伊直弼殺害されたが、混乱恐れた幕府によって表向きには負傷によりしばらく休養とされた。そのため墓所記され没日実際3月3日とは異なり表向き3月28日命日としている。直弼3月晦日大老職を正式に免じられ、閏3月晦日に死が公表された。その間3月10日彦根藩幕府直弼次男の直憲を嫡子とする旨を届け4月28日至って家督相続許された。

※この「藩主死亡を幕府に届けるのを遅らせた例」の解説は、「末期養子」の解説の一部です。
「藩主死亡を幕府に届けるのを遅らせた例」を含む「末期養子」の記事については、「末期養子」の概要を参照ください。

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